6/14のしゅちょう
            文は田島薫

(心配の種、について)


日常生活を送ってる人はだれでも、大小の心配事をかかえてるんじゃないか、

って思うのは、そういう心配事をよく人から聞くもんだし、私自身だってそ

うで、現に、先日、わが家にいついたねこさんが体調くずして何も食わなく

なった時に、食い過ぎでほっとけば治るだろう、って思う一方、いや、そう

じゃなくて、なにか悪い毒を食ってほっとくとどんどん悪化しちゃうのかも、

って心配が起きて来るのだ。

こういう心配はやはりじぶんの知らないことについての可能性を思うからで、

多分、医者だったら、一目でその状態の概要をつかんで、慌てずに適切な処

置をするだろうから、心配を感じることはないんだろう。

だから、心配事については、どれだけそのジャンルについてじぶんがわかっ

てるかどうかでその度合いが変わるわけで、日常の物事についての仕組みな

どについてはふだんから考えて知っておく方がいいわけだ。

知ってることについては、余計な心配は無用だとすぐにわかるわけだけど、

物事のそれを考えたことも知ろうとする習慣もない者は、なにかが起こるた

びに心配ばかりしてなくちゃならない、ってことになる。

こうなると、ストレスで体にいいわけはないんで、心配のあまり病気になっ

たりしたら、却ってつまらないわけだから、心配はするだけ無駄、って考え

て成りゆきにまかせる、っていい加減さも人には必要なのだ。

もっとも、だれかの命にかかわる可能性のある問題には、万全の手を打って

おいた方がいいのは当然なんだけど。

世の中、すぐにだれかの命の危機をおよぼす恐れ、って状況は日常にそうあ

るもんじゃないんで、だいたいはほっといてもたいした弊害はないわけで。

ところが、例えば、大勢の人の命が失われる世の中で一番悲惨なあってはな

らない戦争の心配について、それを指摘する者がいても、そんなこと明日に

でも起こるんでなければじぶんに関係ない、とばかりに考えない人には、心

配が心にないから体にもいい、って言って済ますわけにはいかないわけで、

海外で戦争をし続けてる米国と軍事同盟を強化したりして、自衛隊や国民が

戦闘に参加するような条件をどんどん作って行ってる自民党政権をほってお

いて、戦争になってしまったら、もうそこで心配しても手後れで、絶望しか

なくなるわけだから、そうなるずっと前に、危険の芽を感じた度にそれをた

だ心配し続けるんでなく、その芽をどんどんつぶすように選挙などで国民は

意志表明することが大事なのだ。


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