2/3のしゅちょう
            文は田島薫

(死者を悼む、ってこと、について)


肉親や親しかった人々が亡くなった時に喪失感を感じるのは、だれでも同じだ

ろうけど、始終いっしょに暮らしてた夫婦の片方が亡くなって残された場合の

それは大変だろう。

私の父が何ヶ月かの入院の末に亡くなった後、いつも夫の強権的な態度に反発

しては、先に逝ってくれたら自分は自由になって好きな時に旅行したりできる

から楽しみだ、などとわれわれ子どもに悪口言ったりしてた母が、旅行なんか

ちっとも行かずにずっと毎晩、夫の写真と対話し続けてた、って言うし。

家人の兄貴の妻が一昨年まだ71才ぐらいで病気入院の後急逝した後も、やりき

れないその喪失感から立ち直るのに時間がかかってる模様だし。

でも、そういう話を聞くと、亡くなった者がけっきょくたっぷり愛されていた

んだな〜、ってことを感じるし、もし、どっかから亡くなった当人がそれをな

がめてることがあるんだとしたら、当人は悪い気はしないかも。

人が亡くなっても、その人との思い出や想いは消えないわけだし、いつもその

人とのそれを感じていたり話題にしたりしてれば、つき合いはずっと進行形、

ってことでいいわけなのだし、こっちも当人がそれを見てるなら悪い気はしな

いだろう。よしよし、自分のことを忘れてないな、って。

死者を悼む、って言うと、まず悲しみの共有みたいなことがあって、悲しみは

必要な感情だろうし、たっぷり悲しんでいいはずだから、泣く当人に他人が、

すぐに泣くのを止めようとするのは、大きなお世話なはずで、荒木経惟さんは

愛妻を亡くした後の友人たちとの集まりの中、1人外れてベランダで遠くを見

てた時、なぐさめに来た友人に、ほっといてくれ、今、悲しみを楽しんでると

こなんだから、って言ったそうだし。こんな時はだれでも多分最低2年ぐらい

は悲しみとともに暮らしてるんだろう、って私は思う。

そうすると、悼むなら、悲しみばっかりがテーマになりそうなんだけど、亡く

なった方が、残された方をもし見てて、悲しみに沈んでるのはある程度の時間

は仕方ないとしても、ずっとそれだけだと、心配するかも。

元気出して、ゆっくり残りの人生楽しくやってからこっちへ来てくれ、待って

るから、って思うに違いない、もし見てるなら。


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