きょうのしゅちょう
            文は田島薫

(理想的な死に方、について)


先日、長年親しくつき合って来た友人が路上を歩いてた時心筋梗塞で倒れ、救

急車に乗せられて間もなく意識がなくなりそのまま亡くなった。

翌日奥さんからの知らせを受け、ショックと信じられない辛い気分がずっと続

いてるんだけど、当人にとってはわずかな時間のうちに意識が遠のいて行った

らしいことを考えれば、病院のベッドで自由を拘束された上、痛みと苦しみと

に耐え続けた末に亡くなる人よりは幸せかもしれない。

私自身の死に方をどっちか選べ、って言われたら、苦しみもなく死ぬ方がいい

と思うんだけど、自分の今後の予定を完全無視されたように突然の死に襲われ

る、ってこと自体はやはりできるだけ避けたい。

とは言っても、突然でも死んでしまえば、もう当人にはそういう死に方は好き

じゃないとかなんとか思うこともできない意識のない状態なのだから、死に方

はもうなんの問題にもならないわけで。ただ、これからもずっといっしょに生

きて行くつもりだった人々には、突然の別れが辛くないわけがない。

ということになれば、死際は苦しまず、突然にじゃなくて弱るなら徐々に弱っ

て行き、それも、病院で寝かされててじゃなく普通の生活を続けながら、おお

よその死期を予測しつつ、覚悟やら整理やらをやって、やりたいことも一通り

やって、もう満足だ、って気分で周囲に見守られながら永遠の眠りにつく、っ

て言う形が一番よさそうだ。

もっとも、徐々に弱って行くのより、いつまでも足腰丈夫で死ぬまで元気の方

がいいに決ってるけど、100才ぐらいでも元気に歩いて農業やったりしてる人

もいるけど、若い時より体力が落ちてることは当たり前なわけで、その年相応

かそれより上等ぐらいの感じで、スローペースでいいから普通の生活を続けら

れて、100何十歳ぐらいで、いよいよ歩くのは無理で、寝ていたい気分だ、っ

て当人が思い周囲にそう言ったなら、じゃ、そろそろかな、って心の準備も普

通にできる、ってもんだろう。

で、それが理想として、じゃ、自分もそのパターンで行こう、って実行してる

つもりでも、思わぬ体調不良が起きて病気の診断を受けることも多いのが普通

なんで、そこで自分の身体の状態を客観的に知り管理し続ける、って言うのが、

一病息災、ってことだろうし、私のように自己流健康法やって健康を信じ検診

に行かないのは、リスクもあるわけだから、常に自分の体調についてチェック

したり、想定される身体の不具合についての改善法を調べたり実践したりして

うまくすれば長生きできるかもしれないし、それでもだめな時は、できる努力

はしたのだからと、納得できるはず。

いずれにしても、死ぬ確率を下げる努力はだれにでもできるけど、それでも、

絶対ってことではないわけだから、自分が明日突然死ぬ可能性もゼロじゃない、

って考えながらきょう一日をよ〜く味わって生きるのがいいんだろう。だれか

が言ってた、人生最後の日と思ってきょうの一日を過ごせ、って。


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