1/14のしゅちょう 文は田島薫
(表現についての間違った教育、について)
世の中、一億総表現者、ってぐらいにわが国じゃ老若男女が芸術的表現を習っ
たり発表したりしてるんだけど、それ自体は趣味としても悪くないことだし、
楽しくはりきってる人々に水を差すようなことをする必要はないかもしれない
んだけど、間違った認識がはびこって、「本物の芸術家」たちが正当な評価を
されにくくなる風潮になるとすれば一言必要だろう、ってことで。
最近テレビ番組で美大の教師が、タレントに絵を描かせては、才能あり、とか、
なし、とか評価してるんだけど、見てるとどうも芸術表現の手前の技術的な、
例えば、現実をいかに見た通り正確に描写できるか、ってことが一番の主題に
なってるようだから、それができてないから、って理由だけで勝手に、才能が
あるかないか、断定してしまえば、芸術表現の価値はただ技術的な模写能力こ
そ一番、って錯覚させてしまうことになるだろう。
一般の音楽や絵画サークルなどで技術の基礎を教えるのはかまわないとしても、
それが到達点のように勘違いしたかのように、先生のマネのような同じような
書や写実的絵画がずらっと並んだようなグル−プ展が開かれてたり、するのを
見てると、大丈夫かなこの国の芸術文化教育は、って心配になる。
芸術の本質は技術の巧さじゃなくて、個人が自分の感受性で感じた事をどれだ
け素直に表現できるか、ってことなのだ。
もちろんそれにも技術が皆無じゃできないことは当たり前だけど、その表現に
見合った技術さえあればいいのであって、だれもがベテラン先生と同等の筆さ
ばきのようなことを追求することはナンセンスなのだ。
上手いものも下手なものも、素早いものものろまな者もその自分の素質に合っ
た心から発する正直な表現ができたらそれはそれでいいはずなのだ。
表現についても、子どもたちの受験用教育ののっぺりみんなでいっしょに同じ
答えを競走させるようなのと同様になって、みんなが同じ技術表現の巧さだけ
を競うような傾向はいかがなもんだろう。