きょうのしゅちょう
            文は田島薫

(淋しさを救う入口について)


先日、ソーシャルネットの友人(?)が日記を書いてて、なんだか淋しいんだけど、それ

は自分の世界に閉じこもろうとした時に、入り口が分からなくなるせいなのだ、って。

山頭火だったかが、淋しい寝る本が無い、って言うのは入り口が本でそれも自分の入口た

る本だろう、って。不思議の国のアリスは穴に落ちて自分の方向性がわからなくて淋しく

なったのだ、って、で、なるほどと感心したんだけど、それに対して私はコメントして、

若い時は不安が多く自分の可能性に期待してる分挫折も多いんで入り口もみつかりにくい、

それにくらべ歳とると、可能性に期待する必要はないことがわかり、すぐに入り口はみつ

かる、入り口がみつからないのは心が若いせいなのでは?って書き込みした後で、また考

えてみたら、そうとも一概に言えないかもな〜、と思った。とにかく、その入り口論がお

もしろいんで、また、だらだらと考えてみてることをご披露。

歳をとればすぐに入口はみつかるから若者より淋しさはない、って私が言ったのだとした

ら、そんなことはないわけで、けっこう歳の私だって淋しさは感じるんだし。

で、淋しさを感じた時は老人の心より若者の心が勝ってるせいだ、ってことでいいと、書

きこんだ時は思ったわけなんだけど、これはやっぱり舌足らずで、読んだ方はなんのこと

だかわからないかもしれないと後で思ったんでもう一歩それについて深めてみたい。

淋しさは結局、若者でも老人でもだれにでも普通あるもんで、淋しさの多い若者も淋しさ

の多い老人もどちらもいるわけで、その淋しさはどっから来るか、ってことで、友人は自

分の世界に閉じこもる入口がみつからない、って言ったんだけど、じゃ、自分の世界に閉

じこもれる時の自分の世界、ってなんなんだろう、って言うと、それは自分が心を集中し

て楽しめる世界、ってことになるのだろう。

だから、その世界、ってものは人それぞれの趣向によって様々なものになるわけで、趣味

でも仕事でもなんらかの研究でも、自分の心を楽しませるものならなんでもいいわけだ。

だったら、なんでもなにかそれを持っているなら、いつでも淋しくなりそうな時にそれを

やれば済みそうなもんなんだけど、彼は入口がみつからない時がある、って言うのだ。

多分それは、いつも楽しんでたはずの好きなことに熱中できないなにか別の覚めた意識が

働いてる時なんだろう。例えば、なにか心配事があるとか、なにかちょっとした失敗をし

て後悔をしてるとか、だれかに自分の能力を蔑まれたとか、あるいは、突然哲学的な気分

におそわれて、自分の生きてきた人生や今に価値があるんだろうかこの先なにを目的に生

きるべきなんだろうか、って疑問がわいたとか、空しい気分におそわれた時かも。

そういったことに関しては一般に老人についてばかり取りざたされ勝ちな気がするけど、

若者だって全く同じなのだ。

そこで先の入口を安定的にいつも持ってる人のことを考えると、若者の場合だったら、自

分の未熟さを受け入れつつ可能性は無限なのだと信じ、挫折しつつもがむしゃらに進んで

行けば必ず意味のある人生がみつかる、って感じる心。老人の場合だったら、人生の価値

は一般的な社会的地位といった人とくらべるものではなく、万物と自分の存在の一瞬一瞬

を味わえる心、ってようなことかも。なんらかの価値のある社会的成功について望むのは

若者の心なのだ多分、それはもちろん決して悪いことであるはずはないんだけど。




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