11/9のしゅちょう
            文は田島薫

(時間を大切に使う、ってことについて)


人の命には限りがあり、中高年にでもなれば長生きしたとしてもさほど遠くない未来に

は死ぬわけだし、短ければ明日、ってこともありうるわけだから、今生きてる瞬間を大

切に生きて、死ぬ時に悔いを残さないように、ってことはだれでも思うことだろう。

じゃ、その瞬間瞬間の時間を大切に使う、ってどういうことなんだろう、ってことを、

今、この瞬間自分はそうしてるかどうか、ってことも含めて考えてみると、とりあえず、

自分の意識と体がイキイキと活性化してるかどうか、ってことになりそうだ。

じゃ、自分は何をしてる時にそれを感じるか、って言うと、例えば今なら、ホームペー

ジのしゅちょう欄になんか今思いつくこと書こう、って決めて、何にも思いつかないか

ら、ま、後、1時間ちょっとぐらいのうちに、いつも考えてるような問題を書きながら

考えてみよう、っていい加減に書き始めたんだけど、そうすると、けっこう、なんだか

思い当たるようなことがいくつか出て来そうな予感で、少し気分が乗って来た、ってこ

とも気分イキイキとした感じで、それに近づいてるのかも。

多分、これが、きょう何もする予定もなくて休んでればいい、って状況だと、だらだら、

と特に取り立てたようなテーマもないテレビのバラエティやらニュースなんかを見て、

あくびなんかしてたら時間を大切に使ってたとは言えないのかも。

じゃ、何か自分に用事を科してそれに集中しなけりゃいけない状況を作ればいいのか、

って言うと、その内容が問題になるだろう。たとえば、昔、母親なんかが家計の助けに

ってやってた内職のようなこと、紙袋ののり付けのようなことを4時間ぐらい集中して

やったとしたらそれはどうだろう。小銭にも困るような貧困の中でたとえば、それで2

百円の報酬を得て、家族全員に食パンを食べさせられて餓えから救うことができた、っ

て状況だったら、その4時間は大切な充実した時だった、って言えるかもしれないけど、

それが来る日も来る日もそういう生活を送らなくちゃならないんだとしたらきついこと

だろうし、その必要のない者にとってはただの空しい時間の浪費ってことになるかも。

ところが、その必要のない者があえてその必要のないことに意識を集中することを自分

の意志でやったとしたら、それはまた別の「充実感」が出て来ることもありそうだ。

物理的にどういう時間を送ったとしても、けっきょくはそこで自分がそこでなんらかの

意義を意識すれば「充実感」を得ることはできるんだろう。

とは言うものの、できるだけ他からの拘束は少なくして、自分からのより自由に発生す

る問題意識を解決することに時間を使えるのが理想に違いない。

美味しい料理を食べる、美しい景色を見る、感動する映画を観る、思い掛けない経験を

させてくれる小説を読む、心踊らせる音楽を聴く、それらは気分や体までイキイキさせ

てくれるんだけど、同じようなことをくり返してると、少し飽きてくる。

ところが、その「飽き」ってことを感じてない人々ってものがいて、それは、たとえば、

「本物の」学者や「本物の」の芸術家、「本物の」の宗教家、その他、もろもろ「本物

の」なにかの探究者なのだ、日常生活者もありだ。

「本物の」って言う意味は、有名であるとか世間で認められた、ってことではなくて、

自分の心の奥からの衝動で探究してる人々のことだ。

われわれはこういった人々を手本にして、自分の足下をよく見て自分が本当にやりたい

こと楽しくて追求しても追求しても尽きることのないテーマを見つけてそれに時間を使

うのがいいんじゃないのか、ってけっきょく月並みな結論に落ち着いてしまった。




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