11/24のしゅちょう
            文は田島薫

(日本人の衆愚性、について)


日本人は集団の和を大事にして、個人個人が自己主張することを嫌う傾向がある、って

ようなことは昔から異口同音に言われてて、たしかに、出る杭は打たれる、だとか、空

気を読む、だとかってことを多くの人々が常に意識してる感があり事実なんだろう。

それでも、公衆道徳のようなことを守ったり、なにかの順番をきちんと守っておとなし

くみんなで並んでる、っていったようなことはむしろ評価されるべきことだろう。

ところが、これがひとり目立つような行動はやめて、とりあえず何も考えずにみんなと

同じことをやってればいい、って風にいつも考えるクセがついてるなら問題なのだ。

世の中の仕組みなどは実際、常に時代によって変化して来てるものだし、その変化はそ

の時々刻々と持ち上がる状況の変化への不適応を感知した人々の問題提起やら、その改

良努力によって進歩して行くはずのものだから、そういった場面で、従来の方法に盲目

的にしがみついて少数の改革者の足を引っ張るようなことがあってはならないのだ。

そのためには、自分が信じてる既成の知識や認識が常に未来永劫正しいものだとは限ら

ないのだ、っていう自覚と、常に時代の変化とそれと逆に、時代の変化によっても、逆

に意識的に大切に守らなければいけないものとを、きっちり認識区別できる力がわれわ

れ個々に必要なのだ。それは大学まで続く大量な断片的に積み上げられた知識や情報の

量のことではない。われわれや世界の人々が本当に望んでるものの実現に必要な手続き

や政治のようなこと、それと現実のそれがちゃんと合致してるかどうかを確認したり、

問題点を感じたらそれの解決はどうあるべきかを、「魂」で感じることなのだ。

そのためには、他人の言うことをウのみにしたりみんなが一緒にやってることをすべて

よしとして従うんではなくて、もし自分ではなんだかピンと来ないことがあったら、自

分の頭でものを考えるクセをつけるのがいいのだ、そしてそばのだれかに考えを言って

みる。そうすると、賛同するものが大勢いるかもしれないし、逆にほとんどいなかった

なら、その反対する理由を相手に聞いてみると、自分が納得できる説明をもらえるかも

しれないし、そんな余計なこと考える必要はない、って言われるかもしれない。

後者の方だったら、それこそ考えることに意義を認めない日本人の衆愚性の現れなのだ。

そういう風潮を変えるには、まず、そういった衆愚性をわれわれ各自が自覚することか

ら始めなければならないわけで、そういう状況でも常にあきらめずに考えを表明し続け

るのがいいのだ。

とにかく各自が自分の頭でものを考えたりそれを表明したりする習慣がなければ、今の

ように時代錯誤的な戦争政策に邁進する政権を野放しにすることになるのだから。




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