4/14のしゅちょう             文は田島薫

(自他の法話について


私は自分に信仰心があるかどうかはわからないし、なんとか教にのめり込んでそれの

教義だけを信じて自分の全生活をそれに捧げてる人の気持ちもわからないんだけど、

仏教でもキリスト教でもイスラム教でもその他の宗教でも、その教典のダイジェスト

のようなものを読んでみると、人の生き方に関する基本的な考え方にそれほどの違い

がないように感じるし、そういった文章を読んだりすることは割合好きだ。

それぞれの宗教が生まれるにはそれぞれの場所や時代の状況や人々の無意識下の要請

のようなものが原因としてあったんだろうし、その広まり自体悪い事ではなかったは

ずなんだけど、それらがかち合う時に宗教戦争のようなことが起きてしまうのは、後

の人々の意識の限界のせいであって、宗教を想起したそれぞれの創始者にはそんな馬

鹿げた事態は多分想定外だっただろう。人間とは雑念の多い存在だから、より効率的

に「正しい道」を見つけられるように、といった親心だったんだろう。ところが、同

じことを考えていた者がいくつかあって、本当はどれもみんな「正しい道」なのに、

人は言葉通りにたまたま自分の宗教だけが、って考えてしまうのだ。

そういった、争いは同じ宗教の中でも数々の派閥抗争を生んだりして、ますます、宗

教の本質を知りにくくなって行く矛盾をかかえているのが現代なのだ。

で、そういった宗教抗争のことは忘れて、何宗のだれが、ってことも忘れ、たまたま

昨日テレビで知った喩え話を。

自他、自分と他人、人は自分中心に物を考えるから、たいていいつも正しいのは自分、

それに反対するのは他人、って考え勝ちだ、って、他人の立場を知って考える、って

ことはなかなか難しい、ってことだ、って喩え話。

あるところに毎日喧嘩ばっかりしてる家族がいたんだけど、そのとなりには全く喧嘩

などしたことがない家族がいたんだって、で、喧嘩ばっかりしてる家族のひとりが、

となりの家族のひとりに、うちはいつも喧嘩ばっかりしてるのに、どうしておたくは

喧嘩なしで過ごせるんだ、って聞いたところ、喧嘩しない方の家族のひとりが言うに

は、おたくはみなさん正しい考えの人ばかりだからそうなんであって、うちはみんな

間違った考えの者ばっかりだから喧嘩になんないんだ、って。

ある時、喧嘩しないはずのとなりの家で、なんだか珍しく騒いでる声が聞こえるんで、

行って事情聞いてみると、飼ってた牛が逃げてしまったそうで、それについて、息子

が自分が牛小屋のかぎをかけ忘れたせいだ、って言うと、いやちがう、と、父親が自

分が夜中に便所に起きた時、かぎがかかってないのをわかったけど、寒かったし、大

丈夫だろう、ってそのまま寝てしまったせいだ、って、すると、おばあさんが、いや

いや、自分はかぎがかけられてないの知ってたけど、ふとんから出るのがいやだから

ほっておいたんで、その自分のせいだ、って言い合ってた、って。

そこまで無理だとして、そう思うなら他人を非難するのもいいだろうけど、自分だっ

ていつも他人から非難されることがありうるいわば同等の存在なのだ、っていつも意

識して、人からの非難にも充分耳を貸すのがいいんで、自分だけは人よりも優れてる

んだ、って勘違いしない方が身のためなのだ。




戻る