12/29のしゅちょう
            文は田島薫

(表現の自由の行き過ぎについて


表現の自由、だれでも感じたこと思ったことを表現していい、って自由。あいつが好きだ、

あいつを信じてる、あいつは仲間だ、あいつとずっといいつまでもいっしょにいたい、っ

て言われてるのを知った相手は、それがたとえ嘘だったとしても不愉快になることはない

だろうに、それがもし、心からの正直な言葉だったとしたら、だれでもなんだか嬉しくな

るだろう。もちろん、そんな生なことを直に言われたら、気恥ずかしさに気まずくなった

り、思わず怒ってしまうこともありそうだから人それぞれ、表現には無理がないように気

をつけた方がいいにしても、こっちはさほど双方の関係にとっての重大な害はなさそうな

んだけど、一方、あいつは嫌いだ、あいつは信用できない、あいつはいらない、あいつな

んかいなくなればいいのに、って言われてるのを知った相手は哀しい気分だろう。

でも、そういった存在を否定されるような表現をされても、びくとも負けない関係もない

ことはないわけで、自分に十分な自信があって、相手の内心の嫉妬や隠された敬意のよう

なものを感知する能力があったり、そういった人の思惑にまったく関心をよせない自己完

結的な人生を楽しんでる者とか、あるいは、相互が毒舌の応酬を楽しめるような関係や、

いろいろありそうだけど、いずれにしてもそれができるなら、根っこには人々の弱さや底

の善意への信頼、といったものを信じられてる場合なんだろう。

そんな強い人も、たとえば、周囲のだれ彼もが彼の存在を否定してたとしたら、それに耐

えることは難しいはずだ。それでもめげない底なしの自信家がいたとしたら、多分それは

ある種の天才か愚鈍かどちらかだろう。

で、ふつうの人々の人間関係は広いようでもある種のパターンになりがちで、どっかで存

在否定されるような評価をされると、それに引きずられてしまうこともあるだろう。

それを認識して自己改革でもできれば問題も消えるだろうけど、たいていの人々はどっか

で自己正当化しがちなもんだから、外からの批判にはとまどってしまいがちなのだ。

だから、人間関係で、だれかの存在を否定するような表現は基本的にやめた方がいいのだ。

嫌いに思う気持ちが正直だったら、黙って離れて行けばいいし、それでも関係を続ける必

要があるんなら、あなたのこういうところが私は嫌いなんだ、ってはっきり言えばいいん

であって、相手がその問題点を直せるんであれば直すだろうし、直せないもんであれば、

それはお互いさまのような単に趣向の違い、ってレベルで軽くとらえ、それなりの関係を

続ければいいのだ。

一方、政治的なレベルで民衆が為政者にレジスタンスするような場合だと、かなり過激な

為政者の存在否定のような表現をしがちだけど、これは、自由主義国家の表現の自由のよ

さと言ってもいいんじゃないか、って言えるのは、絶対的に権力を持ってる方にその弱い

方の国民がたてついてる構図だから許されるのであって、それでも、首相を殺せ、などと

いった露骨な表現をするものはそんなにいないはずなのだ。

それが、このほど、北朝鮮の第一書記の実名でそれを暗殺する映画が米国で公開されたん

だけど、これは行き過ぎだろう。自由主義国家である米国や日本の優位を信じた層が傲慢

に上から目線でそういった表現を平気でしちゃったのかもしれない。

どんなに独裁政治でも人権問題を抱えてても、それは世界中の各国どこもが経て来た歴史

の過程なんであって、北朝鮮には北朝鮮の事情といったもんがあるんだから、他国からは、

個別の人権問題解決のための批判や援助などに徹し、当国のリーダーには常に敬意を示す

べき、といったはずのところへもってきて、暗殺、ってような形で存在否定をコメディー

仕立てにして侮辱するのは大間違いなのだ。当のリーダーの寛大さを信じて、せいぜい、

馬鹿げた自由主義の馬鹿げたB級映画なもんで、と許しを請うしかないだろうけど。




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