10/6のしゅちょう
            文は田島薫

(言葉の力について


若い頃に、後悔したり恥ずかしく思う言葉の失敗が多いのは、言葉というものの本

質をよく知らなかったせいなのだ。

生まれてしばらくするとだれでも言葉は使うもので、自分の感じることをただ表現

してればいいはず、って気楽に使うんだけど、自分とは違う個体に対してその意図

なり気持ちがいつもそのまま伝わるわけではないし、それが仮に伝わったとしても、

それにだれもが共感してくれるわけではない、ってことも、なかなか気がつきにく

いので、そんな時に、怒られて驚いたり、がっかりしたり、こっちが怒ったり。

それに、自分はこういう気持ちで言ったのだ、って思ったとしても、それの裏に自

分でも気づいてない内心が現れてしまうのも言葉の側面なのだ。

友人同士などは気楽な言動でちょこ、っと思いついたことをそのまま口に出してし

まうために、ケンカになって後で反省したり、そういったことを同等の立場で頻繁

にできる関係なら、映画「男はつらいよ」や落語の長家の夫婦のように仲がいい場

合もあるけど、無用なけんかは大きくならないに越したことはない。

根に愛情があって常に相手の立場を考えてたりするんなら、ケンカは大きくなった

りしないだろうけど、誤解やはずみでそうなったとしても、そういった関係なら、

修復できたり、逆にお互いの理解が深まることさえある。

それでも考え方の違いがあんまり不愉快な友人同士なら、もう絶交だ、って言って

別れるのもいいだろうけど、夫婦の場合なんかだといろいろ難しい問題も起きる。

それでもそれも別れりゃ済む問題だとも言える。ところが幼い子供と親の関係、っ

てことになると、別れりゃいいだろ、って簡単には行かないわけで、幼子はもう、

どんなに気持ちが納得してなくても親に頼る他ないのだ。

もし、どちらかが他方を自分の意のままにしようとするとすれば、親は幼子に対し

てはスタートから有利な立場にいるのだ(根からの親馬鹿で逆の立場になる、って

ことも稀にはあるようだけど)。

親の方がそこで安心して、継続的に子供の感情や意志を無視して思いのままに子供

を管理しようとしたら、そこで子供の反感が育てられることになるだろう。

かつて、教育ママ的押し付けを強要された子供の反逆で殺された親がいたけど、同

じようなことが先日起ったから、まだそういった状況はあるのかも。

言葉はコミュニケーションの道具なんだけど、それは相手がだれであれ、口ごたえ

をするのも言葉を使う者の自由で、それを許す前提が必要なのだ。

どんな場合でも言葉が片方の個体の意志をもう片方に命令・拘束するものだったら、

信頼感や愛情は育たず、その関係性は必ず破たんに向かうことになるのだ。




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