4/8のしゅちょう             文は田島薫

人間性のクオリティについて

前回は人間の体についての物理的クオリティ(品質)を高めることに関連したことを書

いたんだけど、今回は世界(または社会)への有用性、って意味での品質について、そ

りゃ、体のクオリティが高い方がそれについても有利だろうけど、全身マヒの重病であ

っても社会的貢献してる学者や実業家もいるわけだから、体のクオリティは絶対必要条

件ってことでもなさそうだ。じゃ、やっぱり、金かすぐれた頭脳がなけりゃだめだろ、

って、金も学もなくて病気で寝込んでる人はもうだめか、って言えば、そんなこともな

い、例えば余命さえわずかで端から見たら絶望的悲惨な状況の中でさえ、ささやかでも

希望や目標持って頑張ってる人を見た人はその人から逆に勇気や元気をもらうし。

そういった悲惨な人々を助けたい、って思わず体が動いちゃう人もいればそういった悲

惨な当人が、自分のことより他人の幸福を考えちゃう人もいる。

昔、世界貧乏ひとり旅をした者が、中東あたりの町を腹ぺこでふらふら歩いてると、だ

れ彼がどんどん寄って来て、どうしたんだ、腹へってるのか、って聞いてきてよってた

かって助けてくれるんだ、って。

本来、どこの国の人間でもそういう気持ちをだれでもが持ってたんじゃないか、って思

うんだけど、そういう感情を自然に表現できる社会の方が健全だろうし、たとえ物が少

なくて貧しい暮らしだったとしても人々の心は安定して幸せそうに見える。

ところが、今、例えば、欧米でも東京の町でも、同じように腹ぺこでふらふら歩いてる

ボロを着た人間に声をかける者はどれほどいるだろうか。状況が違うし、東京なら、ど

っかに食べ物をくばる場所もあるし自分が声をかける必要はない、って言えばその通り

かもしれないんだけど、ごくたまに、東京でも餓死する人はいるのだ。

米国発の消費社会のグロ−バル化、っていったもんが、ひょっとすると、結果的に人間

性のクオリティを劣化させてるのかもしれないのだ。もちろん、これも状況や条件の違

う話だと言えばその通りなんだけど、そういった中東のやさしい人々の中からもテロリ

ストが生まれるのだから。




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