1/7のしゅちょう 文は田島薫
(失敗の重さについて)
新年の箱根駅伝は波乱だったようで、前年下位だった日体大が優勝するし、毎年
シード校だった中央大が途中棄権でシード権を失ったりと。
ただ無責任に見てる方はいろいろ変化あっておもしろい大会だった、ってぐらい
のことなんだけど、この日のために苦しい練習に耐えてきた当の選手たちにとっ
ては、途中棄権は辛いもんだろう。中でも一番辛いのは当の棄権者になった選手
だろう。
選手の体調や調子が時にくずれてしまうことは、いつでもありうることだし、そ
のことだけで選手を責めることはできないことは選手たち全員がわかってるはず
だから、その選手を責めないけど、あの時それがなかったなら、って形で悔しが
る気持ちは隠せないなら、やっぱり、当の棄権選手は自分を責めてしまうだろう。
もし、棄権選手が、例えばチーム全員に課せられた練習や健康管理をさぼったた
めに本番で力を発揮できなかったことによる棄権なら、当の棄権者は責められて
当然かもしれないし、罰を受けたり猛反省する、ってことでわかりやすいんだけ
ど、例えばそれが、前日の全員参加の直前練習をがんばりすぎた過労による急性
体調不良、ってことだと当人には落ち度がないことになるし、こういったスポー
ツの体調管理ってもんは、一流アスリートの例を見ればわかるように、かなり高
度な科学的な分析と計画が必要なはずなのだ。そういった万全の準備をしても、
体調をくずすこともあるわけだけど、その危険性のレベルを最少にする、ってこ
とだけなわけで、いつも不可抗力の事態の起きるパーセントはあるのだ。
だから、中央大の失敗は個人のものでなくて、全員一生懸命努力したにもかかわ
らず、その総合的段取りで多分、問題をはらんでいたのだ。反対に、多分、日体
大はその一生懸命にプラスして科学的に管理された段取りがよかったのだろう。
ま、そういったことを、全体で研究し反省するのは、チ−ム全体の仕事であって、
個人の失敗についてイメージするのは恐らく間違いなのだ。
で、そういったこともふくめ、失敗して惨敗する、ってことも次の大成功の元で
あるのは言うまでもないし、もう一段上から見たら、その失敗そのものの悲しさ
も人生の滋味だし、必要なもんなのかもしれない。
だれも助けに来ない穴蔵で死を待つ境遇になった人にくらべたら、どんな失敗の
哀しみや悔やみもたあい無い楽しい遊びのようなもんなのだ。
戻る