(教育で一番大事なことについて)
いじめに遭った中学生が自殺した、ってニュースに連日テレビでいろんな人たちがコ
メントしてるわけで、ここで私までがコメントしたからってどれほど意味があるか疑
問なんだけど、とりあえず私の父は中学教師だったし、父はいじめなどを見過ごした
りするような人物じゃなかったんだけど、その父からの自己過信を感じさせる一方的
で絶えまない説教などにうんざりし続けた経験などから、教育者って立場の危うさや
難しさを実感した気分の身としてちょっと感じたことを。
今回のいじめの実態について、教師はそれを垣間見ても、それが子供たちにはどこに
でもある悪ふざけや遊びなんだ、って認識だったようだ。そういうことがあったとし
て、それはひょっとしていじめなのかもしれないけど、それも子供の時にだれでもや
る一過性の一種の遊びと考えていいんじゃないか、って合理化し、どうも、自分の教
育者としての評価の弊害にならないように、そんな深刻ないじめといったことは、起
ってないのだ、って自分を信じ込ませていたんだろう。
わが国の中学教師の仕事は過酷なようで、子供のことを親身に考え、とことんつきあ
ってたらいくつ体があっても足りない、ってことになるほどやるべき仕事量があるら
しい。受験戦争は相変わらず持続中でそれの効率や成果を学校からも父兄からも求め
られるわけだし、自分の時間を作るためにはどっかで線引きする必要もあるんだろう。
ひとりの人間がやれることには限界があるだろうし、すべてに満点の仕事を求められ
るのは酷だろう。じゃ、大事なことから順番に押さえて行く、ってことがいいはずだ。
大事なのは、学力をあげることなのか、たしかに、それは大事かもしれない、それに
よって社会のあらゆる種類の構造を改革したり進歩させて人々の生活をよりよいもの
にして行く目的があるんだから。でもそういった社会科学なり自然科学なりを使った
り生かしたりして行くのは人間であり人間関係なのだ。つきつめると人間の感受性、
ってことがテーマの基礎になるはずだ。広い意味で人が快く感じることを追究するこ
とが学問だったり教育だったり、ってことも言えるだろう。じゃ、自分が快よければ
他人は不快でもかまわない、ってことで世の中の運営に問題は起きないか、って言っ
たら、それの矛盾は小学一年生でも気がつくだろう
一番大事なことは、人に自分がされたら嫌なことをしないこと、もっとも恥じるべき
卑怯なことは、集団でひとりに自分がされたら嫌なことを強制すること、って知恵の
遅れた無知な自分と子供に「思い知らせる」ことだ。
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