(悲劇の乗り越え方について)
信じられないぐらいの大災害が国内であり、自分の身辺につながるような人々も
それの被害者であったりする時、それをどうとらえて自分の気持ちを整えて行け
ばいいのか、ってだれでも心の底に感じているんだろうと思うんだけど、ボラン
ティアでかけつけて黙々と復興の手伝いをしてる人々や、より合理的なそれを進
めるネットワークづくりを仕事に決めた人とか、実際に実効のある行動こそが求
められていることは間違いない事実なんだろう。
とはいうものの、自分たちの日々の暮らしを送るのに精一杯の人が復興のボラン
ティアに参加をするのは大変なわけで、その非力さを感じている人々も同じくか、
それ以上に、どこか心の葛藤があるはずなのだ。
テレビメディアなどでは、タレントたちがさまざまなスローガンを口にしたりし
て、がんばろう、なんて言ったり現地へボランティアに行き炊き出しをしたりし
てる姿には頭が下がる思いがする一方、それだけでは十分じゃない、って自分の
非行動を棚に上げて日常のどっか非現実感に空しさを感じる時、ひとつの答をく
れる人物がいたので、受け売りでご紹介。
作家辺見庸さん。再放送だったのかもしれないんだけど先日テレビで。
彼は、共同通信の記者だった時、戦争や飢餓、貧困による悲惨な死を数々目にし
て来た、と、自分は根無し草のように感じつつもそういった人々にどう関わって
行けばいいのか悩んで来た、と、それでこのほどの大災害、自分が幼い頃過ごし
た故郷であったことを強く思い起こさせられた、と、そういう故郷や人々の死を
どうとらえていけばいいのか、と、メディアでは、被害者を数字で表現して済ま
せたり、生きたまま車にとじこめられたまま堆積した、といったような本当に悲
惨な事実を隠したりして、現実をきちんと見せることをしていない、がんばろう、
ってような聞きやすい言葉だけでまとめられて、死者が忘れられて行くなら、自
分は耐えられない、と、死者ひとりひとりの唇に別々の言葉を贈って、安らかな
海へ戻してやるのが自分の使命と感じている、と。
これは、けっきょく辺見さんの個人的感性による自分を慰めるためだけの考えか
もしれないんだけど、なんだか死者が救われるような気がしてこないだろうか。 |