(鑑識眼について)
たとえば芸術作品の良し悪しを見極める力を鑑識眼というけど、それを自分で持って
る、って思ってる人は世の中、けっこうたくさんいるようで、自分には難しくてそれ
らの良し悪しなんかわからない、って言いながら、なにかの作品の感想など聞くと、
たいていだれでも意外に饒舌にその劣るところを説明されたりすることがある。で、
それをできる自分は鑑識眼があるのではと錯覚してしまうのだ。それは多分、自分の
感性で心地良いと感じるもの以外は不快なものいらないものってことで、けっきょく、
それは劣ってるもの、って結論できると信じてしまうからだろう。代りに自分が心地
良いと感じるものに対しては安心してその良さを語るのだ。
その人がある作品をどのように感じようと、それは当人の自由だし、それが純粋にそ
の人の感性によるものだとしたら、それはその人の個性と共鳴するひとつの答だとし
てもいいのだけど、一般には、今なら今の時代にもてはやされる、ってような作品の
傾向があり、それを一般大衆は知らぬまに支持してしまうもんだし、それが自分の感
性による答だと思ってしまうのだ。そういった流行りはその時々、あらゆる時代の作
品に一定の評価を固定して来てるもんだから、一般人も安心して良いものは良い、っ
て言えるし、それからはずれるものは批判できるわけなのだ。
で、人は、こういった感想を語れる、ってことが鑑識眼と勘違いしがちなんだけど、
それは全く違うものなのだ。
ここで、例えばちょっと鑑識眼の、評価の定まった作品の本物と偽物を見分ける、っ
て常識的なそれは置いておいて、ただ本質的に良いものとそうでないものの見分け、
って、より原理的な意味でのそれを考えた時、その基準はいったい何になるのか、っ
て言うと、それは創造性、ってことになるだろう。
創造性、って一言で言っても、それがどうわかるのか、それがわかるものが鑑識眼が
ある、と言うのだ。
単なる色の美しさでも技術でもなければ、評価の定まったテーマや表現方法でもない、
まさしく、初めて見るような、それでいてある真実を訴えてくる、それが有名無名に
かかわらず、その作品そのものが発するオーラを直接感じることができる力、それが
鑑識眼なのだ。
世の中、しろうと玄人にかかわらず、批判的饒舌家は無数にいるんだけど、本物の鑑
識眼を持った者は、これがどうも、ごくわずかのようなのだ。 |