12/31のしゅちょう             文は田島薫

人とつながる方法について

若者の携帯のメールやツイッターのやりとりやMixiなどのソーシャルネットワー

クサービスの利用人口拡大はなにかと忙しい現代人が人とつながるための道具に

なってるわけだけど、それをいくらひんぱんにやっても心のさびしさを癒せない

としたら、やはり、それの一件一件のパワーが小さいせいだろう。

現代の日常的コミュニケーション形態は、どうもその場の空気や人の心をみださ

ないような少し本心を隠しても当たり障りない明るくやさしい表現で簡潔に行う

ことが大切なルールになってるようだ。だから、それを幾度もやったとしても、

自分の心の底になにか納得できないものが溜まっていく可能性があるのだ。

じゃそういったIT道具がなかった昔はどうだったか、って言うと、やっぱり、や

たら本心ばかりぶつければいい、ってことはなかったわけで、できるだけ人の気

にさわることを言ったりすることは避ける、って点では同じだったんだけど、そ

ういった会話は直にやったり、電話だったり、手紙だったりで、相手の生の存在

を強く持たざるおえない状況でやってたし(手紙は今のEメールでも似たような

もんだけど、手紙は紙とペンを用意して書いた後、切手を張ったりしてポストに

入れなければならないことで、相手にひとつ誠意を示すことができる)、生身か

それに近いパワーによって、多少相手の気にさわることでも、その真意やらそれ

を伝えたい理由やらの気持ちを表現しやすいのだ。

そう言うと、若者たちは、自分らだってメールだけで会話してるわけじゃなくて、

直に会ってコミュニケーションすることもある、って言うだろうけど、どうも、

ふだんのクセが身についた彼らの多くは、やっぱり友人と面と向かっても、当た

り障りない表現を心がけ相手の心の中まで踏み込むことは失礼なことだし、相手

も自分もそういった深いかかわりは避けたい、って考えてるようだ。

そりゃ、そんなに親しくない人間まで、とにかくだれかと会うたびに身の上話を

したり聞いたりしてたら、へとへとになちゃうはずだからやめた方がいいだろう

けど、自分の心の底の思いを話せる相手がひとりもいない、ってことなら、何百

人とコミュニケーションしてたとしても当人は孤独なはずだ。

たとえば、私は、友だちはほんのわずかしかいないけど、こうやって、思ってる

ことを、他人からの批判も気にせずしてるとたまに、共感した、って言ってくれ

たり暗黙の賛成を感じさせてくれる友人がいて、それで私は人とつながってる感

がある、ってわけなのだ。




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