12/3のしゅちょう             文は田島薫

死ぬことについて

中央道のトンネルで天井のコンクリが落ちて来て通行中の車の9人が亡くなった。

亡くなった人たちも、まさかこんなことで自分が死ぬなんて思ってなかっただろう

けど、こういうことはだれの身にでも起こりうることだし、事故に限らず病気でも

自分の想定してた寿命より早めに死ななくちゃならない場合も起こりうる。

ま、人は例外なくいずれは全員必ず死ぬわけだから、死ぬことだけ恐れててもしょ

うがないわけで、とにかくその時になって、生きることに未練を感じてじたばたす

るのは辛いことだろうから、自分はいつ死ぬんでもかまわない、ってぐらいの心構

えができてたら安心、てもんだろう。

じゃ、その心構えはどうしたら身につくのか、って言えば、これは昨日読んだ古代

ローマ時代の哲学者セネカの受け売りなんだけど、きょうの日を人生最後の日と考

えて大事に過ごせ、ってことと、その貴重な時間を、自分だけのために使え、って

こと、だそうだ。

自分だけのために使う、ってことは、社会的な地位やしがらみや義理やつきあいや

さまざまな物質的欲望のための生活をすべて切り捨てて、自分を知るための哲学に

あてろ、ってことだそうだ。

この目前のもうけ話を仕上げて、生活のための資金を充分溜めてから、そういった

時間を持とう、っていうのじゃだめで、今すぐにそれを始めろ、って。

なぜなら、そういった雑事に浪費する人生の時間はまたたく間に過ぎ去ってしまう

からで、そうでなく自分で自分の時間をつかんだ瞬間、その人の人生の時間は物理

的な長さと無関係に豊かなものになるからだ、って。

ちょっと乱暴な意見のようにも感じるんだけど、たしかに、日常の雑事で忙しく動

きまわってた人が急に死ぬと、まだ、あんなにやりたいことがあったようなのに、

まだこれからなのに残念だ、って周囲に悲しさが拡がるようで、でも、これがその

人がみんなに愛されてた証拠だ、って考えればそれはそれでいいとこもありそうな

んだけど。

しかし、悲しいとか残念とか、ってことより、充分に生きた悔いは一切ない、って

当人が(周囲も)思えた方がよりいいんじゃないだろうか。

私だって、とりあえずまだ死にたいわけじゃないんだけど、いつか死ぬ時は来るわ

けで、それが2年後か20年後かわからないけど、それの長短の差は問題ではない、

ってぐらいに充実して生きたいもんだ、ってこれはただの願望なんだけど。




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