11/26のしゅちょう 文は田島薫
(自己正当化について)
私の両親が亡くなり遺品を整理した過程で親父の随想録のようなものが出て来た。
教員を早期退職してから小さな事業を始めちゃ失敗するからたわら、人づきあいを
避け、日夜書斎にこもって考え事したり書き物したりしてた親父の生活は、事業欲
を抜いた部分で私にも少し共通するとこもあって、やっぱり親子ってもんは自分で
考えてる以上に似てるもんなのかもしれない、って感じてるわけなんだけど、その
随想録には私に対する不満が沢山書かれてて、でも、それのすべてを紹介するのは
疲れるのでやめることにして、印象に残った部分をご紹介。
両親が達者だったこともあり私はもう何十年も両親の元へは盆と正月に1〜2日だ
けしか帰ってなかったんだけど、ある年のお盆に帰った時、飼ってた犬にここんと
こ散歩役のおふくろが足をねんざかなんかしたせいでずっと散歩させてない、って
言うもんで、散歩をさせようとしたら、親父が、やめろ!って言う、不思議に思っ
てなんで?って聞いても、なんでもいいからやめるんだ、って言ってるんだけど無
視して行こうとすると、なんだか激怒してて、いくら理由を聞いても応えないもん
でわけもわからず、なにか理由があるのだろう、そのころ独身だった私は、きっと
いい歳してひとりもん、ってことが親父には近所の手前恥ずかしく思ってのことか
もと思いつつ激怒を無視して散歩に連れて行ったことがあった。
次の年のお盆にも聞くとずっと散歩させてない、って言うもんで、また散歩に連れ
出そうとすると親父は前回に増して問答無用に激怒してやめろ、って騒ぐもんで、
不承不承に散歩をとりやめにしたんだけど(この時初めて理由を聞いた)。
その最初に私が親父に反抗したことが親父は許せなかったようで、随想に以下のよ
うに書かれてた:
薫は父親の私に言いたいことを言って私の言うことを聞かない、子と親との間には
超えてはいけない敷き居といったもんがあって、子供は親になんでも言っていいも
んではない、と(親の言ったことがなんであれ反対してはいけない、と)。
で、問題の箇所は:
犬の散歩をしていた妻が足に怪我をしてそれができなくなった。私も痔でそれはで
きないのに散歩の時間になると犬が鳴きわめくので、近所の迷惑にもなるし、犬も
可哀想だ、やっと犬がそれをあきらめたとこだったし、そんなわけで、薫に散歩を
やめろ、って言ってるのに、薫はそれを無視して散歩に行く。自分では正しいと思
ってるのかもしれないけど、ものごとには深い事情があることを全く理解してない
のだ、と。
たしかに親父の言うことにも一理あって、そう最初からちゃんと説明してもらえた
ら、田舎でとなりまでかなり離れてるのに、犬の鳴き声がどれほど迷惑になるのか、
の検討やら、犬は散歩を最初からあきらめた方が幸せなのかどうか、の検討やら、
痔だとどうして散歩ができないのか、の検討ができたんでは、と私は思うんだけど、
もっとも、そんな検討はやっても親父の前ではたいてい無意味なんだけど、親父に
とっては、とにかく、いくら老いたといえ親が判断したことにいくらいい歳になっ
たからといって子供が口答えすること事態がすでにダメだ、って言ってるのだ。
世代間の価値観もあり、どっちが正しいかは、それぞれの世代や個人によって意見
が別れるところなのかもしれないんだけど、こんな些細なことでも簡単にコミュニ
ケーションの断絶が起こりうる、ってことはよく自覚したいもんだ、って思うきょ
うこのごろなのではあった。
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