7/25のしゅちょう 文は田島薫
(日常での本末転倒について)
毎日10キロぐらいの距離を20年ぐらい走り続けてるらしい作家の村上春樹さんが、自
分が走ることについて考えることを書いた本があって、それを読むと、肉体の忍耐力
を鍛えることが長篇小説などを書く時に生きるというようなことを言っていて、一般
的意味での健康維持以上のものがあるようだ。で、体力増進の実感の他に、なにより
自然の中で身体を動かす爽快感がそれを長年続けさせる一大要素なんじゃないか、っ
て私には感じられた。
村上さんは、自分の持久力の進歩を確認するために、年1ぐらい(?)にいろんなマ
ラソン大会にも参加してて、ある時北海道の100キロマラソンに参加したんだけど、
経験したことのない42キロを超えて、55キロぐらいの時には苦痛の極みで足も全然前
に出なくなり腕の振りによる助力にたよってかろうじて歩を進め、自分はただ走るた
めの機械に過ぎない、って自分に言い聞かせながら耐えたそうだった。
で、ゴールした時にその達成感に喜びを感じたらしいんだけど、その後のしばらくの
月日、走ることの情熱がかなりなくなってることに気づき、その理由がわからなかっ
た、って。
当人がわからないって言ってることを、第三者である私が勝手に結論づけるのは失敬
だとは思うんだけど、多分、村上さんの疑問は私の言うことと次元の違う意味のはず
で、そりゃそうなんだけど、って賛成してくれるはずなんであえて失礼をして言わせ
てもらうと、限界を大きく超えた走りに、走ることの爽快感がなくなり、自分を機械
にしてしまった自己暗示が後遺症になってしまった、のだ。
こういうことはわれわれの日常によくあることで、走り出した車の運転手はその必要
もないのに知らず知らずに目的地へ着くまでできるだけ早く進まなければならない、
って気分になり勝ちだったり、感性を育てる重要な時期の子供に無理矢理学習競争を
強いたり、突き詰めたらどうでもいいような商品を作る会社の仕事を家に持ち帰り、
家族の対話時間を削ったり、それを煩わしく感じたりし、で、その会社の仕事をきち
んとやって、昇給して家族を幸せにしてやるつもりのその夫は、働き続けて、家族に
金以外の幸せは永遠に与えられなかったり、と。
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