6/13のしゅちょう             文は田島薫

(被害者と加害者について)

村上春樹がスペインで、文化に貢献した人に贈られる賞を受け、そこで今回の東日本

大震災に関わる演説をしたそうで、その中で、原発事故に関して、核被害者であるつ

もりだった日本が結果的に核加害者になってしまった、われわれは原発反対を徹底す

べきだったと言った。

この演説に異論をとなえる人もいるはずだけど<現に事故後、テレビでの討論会で、

若手人気作家のひとりが、飛行機の例え(こういう論の場合に出される定番らしい:

事故の確率がゼロでない理由でそれの開発を止めるのはナンセンス、という)を出し

てこの事故で科学の進歩の歩みを止めるのは反対だ、と言い、海外の評論家(?)の

ひとりも賛成してた>原発の事故の場合の時間的空間的スケールの規模は、予想を不

可能にするぐらいなのだから、だれかがいくら口で言ったとしても、その安全性の保

証は今だかつて、よほど無責任か楽天的人物以外に納得したものがいないのだ。

原子力発電所本体もそうだし、稼動すればどんどん溜まる放射能たっぷりの核廃棄物

だって、ただ地中深く作ったシェルターに埋める、ってだけでは、今回のような巨大

地震があった場合の安全性をだれも保証はできないのだし。

われわれ日本人は広島長崎、って核については被害者だ、って信じて、世界に向けて

常にそれを謳っては核廃絶を訴えていたわけだけど、一方、同じ核でも原発の方は平

和利用だし、専門家が安全だ、って言ってるから大丈夫だろう、って内心の不安を隠

しながら、電気は必要だし、夏はクーラー冬はヒーター、便利なエアコンなしじゃ生

きられないし、便利な電化製品もどんどん欲しい、生活を便利にするいろんな製品を

つくるのに使う電気もいるだろう、って、そっちの問題点はあまり考えないようにし

てきたのだ。

人はほっとくと、自分は被害者だ、ってことにはすぐ気がついて、騒ぎだしても、ひ

ょっとすると自分が加害者かもしれない、ってことになかなか気がつきにくいもんな

のだ。それは、たいてい人は知らずに自分に都合のいいように物事を考えてしまうも

んだからなのだ。

時々は、自分は好き勝手やって生きてていいのかどうか、世界の人々、ことに未開発

国のみなさまなどに対してご迷惑かけてないか考えてみるといいのだ。




戻る