11/28のしゅちょう             文は田島薫

(乱暴者について)

言葉の乱暴者って自認する立川談志が10余年にわたる喉頭癌闘病の末亡くなった。

闘病期間中も声の出せなくなった最期の何ヶ月を除いてずっと「毒舌」を吐き続けて

愛されていた。「毒舌」といっても、ただ単に人を貶めたり虐めたりしたわけでない

から凡人がそれを真似するのとわけが違うし、なにせ言うことは少し乱暴に聞こえて

も、一理ある、ってことが多いし、第一、その本職である噺についての努力や実力や

将来のそれのあり方といったことへの見識、といったことの当人の自覚と自信に人は

敬意を感じないわけにはいかないし、それでますます言葉も力を持つわけだから、彼

が万人に愛されて当然だったのだ。

もっとも、先の師匠である小さんのように、一般的な常識的礼儀作法を重んじる先輩

などには不評だったようだけど、そんなことは常識人なら思わないことになってるし、

仮に、心に思っても口に出すもんではない、ってことでも平気で口にした。

結局、そういった世間のしがらみに縛られない心の強さが、彼の自由な発想と創造性

をのびのび育てたんだろう。

じゃ、乱暴な口をきく、ってなかなかいいことなんだな、って、さっきも言ったよう

に一般人が気ままにやってしまうと、私自身も大いにしでかしたことであるんだけど、

人を傷つけたり、ただの無礼者め、って怒られるような失敗をすることになる。

それが許されるのは、実力が認められた芸術家や芸能家または科学者やその他、社会

的成功者だけであり、乱暴な口ききを大きくフォローする社会的貢献があってのこと

なのだし(もっとも、芸術家や芸能家については、人のためにはならない、って言わ

れたりするけど、それを真に受けて自分と同じだ、と考えてはいけないのだ)、たい

てい、その乱暴な口ききにも深い目的があり、仮にそんなものが全然なかったとして

も、人には、なにか意味があるはずだ、って深読みしてもらえるのだ。

いずれにしても、立川談志って人の「毒舌」ってもので触発されることがあっても、

それによって傷ついた人はいないようだ、って事実を見れば、乱暴な口きき、っても

んは、仮に一般の凡人がやったにしても、一概にいけないもんだともいいもんだとも

言えないような創造性の根を持ったもんだと言えそうだ。ところが、これが腕力によ

る乱暴となると、どんな理由であっても、たいがい、それがいいもんである、と言え

ない場合の方が多いのだから、一緒にしてはいけないのだ。




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