11/17のしゅちょう             文は田島薫

(平常心の難しさについて)

親父は、運動不足や軽い脳硬塞の影響で、ここ2年ぐらいの間に急激に足腰が弱り、

それに連動して80才越えても虫歯が1本もないと自慢だった歯もだめになり、慣

れない入れ歯で食事や栄養摂取も不足がちになる、といった悪循環が起こりどんど

ん弱ってきてたので、肺炎による救急搬送、入院からリハビリなど、やれるだけの

ことはやり死去に至ったのだから仕方ない自然の流れだ。

私はそう思い、死に顔を見た時も平静でいられた。

ただ、その後の葬儀やら、属してる近所組合のしてくれる世話の有り難さと同時に、

そのしきたりや各種手続きやつき合いの煩わしさ、が脳裏に浮かんだ時から、徐々

に心が騒ぎだした。

両親の家の床の間には、おふくろが属してた数々の婦人文化クラブのひとつの書道

で書いた「平常心」の掛け軸がかかってて、それを見て、そうだよな、平常心が大

切なんだ、っていつも思ってたし、このコラムにも偉そうにそう書いたりしちゃい

そうなんだけど、実践となるとなかなか難しいのだ。

葬儀社や組合員との集まりやこちらの希望を入れた取り決め、坊さんへのお願いや

ら費用確認、葬儀の段取りなどぽつぽつとやりながら、気持ちは揺れて、あっちへ

こっちへ、自分はなんて無能なんだろう、って、人の集まる場所できちんとした挨

拶スピーチなんてこともやったことがないし、やりたくもないし、自信もない。

私は私のことをきちんと制御管理できてるだろうか、って考えると、入れ代わり訪

れたりする来客に対する私の言葉使いの不十分さがいつも感じられたり、家族のこ

とを思ってた親父、って坊さんの言葉に、思わず込み上げるものがあったり、って

感情もあっちへ行ったりこっちへ行ったり、そこで、平常心、平常心、って念じて

みるんだけど、なかなか平常心はやってこない。

あたりまえのことなんだけど、平常心、ってものは、頭でその必要を理解してもす

ぐに実践できることではないとわかったのだった。その心掛けをいつも持ちながら、

身体の動きやしゃべりにも落ち着きを心掛ける、形からのものと、感謝や思い遣り

といったことのみに意識を集中して自分がどう見られるかなど眼中から消す、心の

練習の繰り返しによってそれが少しずつ身に着くもんなのかもしれない。

座禅なんかも、それを合理的に達成する方法なんだろうけど、その座禅だって、坊

さんは死ぬまで修行といって何十年もひたすら座り続けるわけだから、私にそれが

なかなかできないのは仕方ないのだろう。

それに、人は感情を持ってるわけだから、感情の高まりなどをいつも押さえればい

い、といったもんでもないわけだし、平常心は一生の課題なのだ。




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