9/21のしゅちょう             文は田島薫

(怒りの独善性について)

昨日読んでた本で、脳科学者の養老孟司さんが、個々人の善悪の判断は脳の論理的な

部分で行われない、って言ってて、人は各々悪と感じたことに怒るわけだけど、それ

は感情的なもので人それぞれでその感じ方は違う、と、その人が怒りの理由を理屈で

説明したとしても、それは後からついたへ理屈のようなものだ、って。

で、思い出したのがその前々日ぐらいに読んだ、新聞の何気ないコラム。ケンブリッ

ジ大だったかで教授やってる70才ぐらいの分別ある学者が、同僚と居酒屋で飲んでた

時、となりのテーブルで若い会社員らしいグループのひとりが、職場のなにかに怒っ

て興奮し続けてるのを目にして、そういえば、自分もあんな風に怒ったことがあった、

って、若い頃勤めた会社の上司が休んで戻って来た時、その上司から、次席である彼

が自分の代りに決済しておいてくれればいいのに、って言われ、怒ったと。それの責

任者は上司でしかないわけだし、仮に自分がやったとして、決済作業に不手際があっ

た場合、上司のあなたが責任をとってくれるのですか、って聞くと、そんなことでき

るわけない、って言われたと。よし自分が全部責任をとろう、って言われたら自分も

それをしてもいいと思ったんだけど、ってようなことを長い時間主張し、結局上司は

折れた、って言うんだけど、自分はあんなに怒ったのは若さのせいだと言いながら、

でもあの時の議論は絶対に自分の方が正しいのだ、って彼はそのコラムでも言い切っ

ていた。

それを読んだ時、代りにやってくれればよかった、って言った上司はすでに、その彼

の能力を認めてるわけだし、代りにやるということは、その責任も引き受ける覚悟が

必要に決まってるわけなのに、それを、決まりだから、って避けようとする理屈が私

には全然正しいとは思えないのに、数十年も経って年を重ねても、人には自分が正し

い、って断言できちゃうわけなんだな〜、って感心したもんだった。

もちろん、この判断は私個人のもんで、彼の言ってることにも一理あることはわかる

し、何言ってんだ、彼の言ってることの方が正しいに決まってるだろう、って思う人

の方が多いのかもしれないな〜、ってことも感じるのだ。

だから、あきらかにだれかが理不尽な暴力や被害を受けてる、って言ったようなもん

以外、怒りの元の善悪の判断、ってあまり簡単にはできないもんらしい。




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