5/10のしゅちょう             文は田島薫

(怒りの不利さについて)

先日、友人の僧侶が怒った(僧侶が怒るなよ)、って話を聞いた。当の僧侶によると、

花見の席へ後から行き、そばへ立ち、席を開けてもらえるかと思ったら、それをして

もらえなかったもんでつい大声で怒った、って。自分なら当然することをそこにいた

人はしなかった、って怒っているのだ。怒る前に、申し訳ない少し席をずれてもらえ

ますか?って言えばなにも問題なかったはずのことを、自分の期待した理想が高かっ

たために失望と怒りが生じたらしい。

喜怒哀楽、人間はそれを素直に現せた方が精神的にも健康でいられそうな気がするし、

それが、他人から見て、なるほど、この人はこのことについて、感動したり、悲しん

だり、怒ったりしてるんだな、って共感や支持を得られる場合は問題もないんだけど、

ありゃ、あの人、なんであんなに泣いてるの?、とか、それならまだいいとして、な

にをあんなに怒り狂ってるの? いや、全然わかんない、ってみんなが思うようだと

人間関係に支障があるだろう。

それでも怒ってる当人には理由があり、それをわかんない相手の方がおかしいんだ、

って主張するのも自由だし、それで人間関係がうまくいかなくてもかまわない、って

思うのも当人の自由だ。しかし、例えば、怒りの正統性は自分にある、って思い込ん

で問答無用で殴りつけたりすれば、暴行罪で捕まることもある。

たいてい、いい大人が喧嘩してる場合は最初は言葉で自分の主張をし合う、って形か

ら、それの理解が双方食い違い、エスカレートする、ってパターンが多そう。

双方が怒ってる場合は、自分こそが正しくて、相手の言ってることなんかちゃんちゃ

らおかしなことで聞くに価しない、って双方が思ってるわけだから理解し合うことが

不可能に近いほど難しいわけなのだ。

だいたい、人は自分が不快を感じた時、それが相手のせいだ、って考え勝ちで、自分

の方にもそれの一端の責任があるかもしれないとか、相手の行動にもなんらかの事情

があったかもしれない、などと考えることはしにくいもんなのだ。

なぜなら、人ってそれぞれ、自分の考えや行動はいつも筋道が立ってるんだから、そ

れに逆らうものは間違ってるに違いない、って思い勝ちのもんだからだ。

それで、自分の主張が理解されないと思うと、怒ってしまうとすると、第三者からは、

あ、こんなに我を忘れて怒っちゃって、この人は相手の立場とか、状況とかを総合的

に判断する能力にはまだ欠ける人なんだ、ってばれてしまうのだ。




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