6/28のしゅちょう 文は田島薫
(希望の力について)
生きてることそのことがうれしい、って感謝しながら過酷な毎日も過ごせる人は無敵な
幸せ者だろうけど、辛いと感じる生活をするたいていの人にとって、生きる気力を得る
ために、実現可能な「希望」がいるだろう。この一苦労済めばローンも終わる、だとか、
子供が成人して養育費がいらなくなる、だとか、苦しい治療が済めば病気が治る、だと
か、人それぞれで、その希望してる要求の大きさもマチマチ。
どんなに貧しくても、自分の夢を実現しようとがんばってる若者は幸福そうだし、老人
だって、向学心にあふれ定年後に大学に入り直すような人も幸せそうだ。
逆に、人生計画がなにかのせいで挫折したり、失敗したりして、希望だったもんが絶望
に変わったり、ってことも今の世の中多そうなんだけど、そうやって自暴自棄になって
起こされたりした事件なんかを見聞きすると、なんでそこまで思いつめるかな〜、って
私でも感じることが多いわけで、その時代時代の中での価値観で、人は希望とか絶望と
かをどうにもならないような運命といったぐらいに勘違いしてしまうことがあるようだ。
例えば戦後の焼跡の時代などは日本人のほとんどが、極貧やホームレスといった状態で、
食べるものも不足して、いつも腹ぺこでよろよろしてた状態でも、日本は復興するし、
家族の暮らしもまともになる、って信じられる希望があったために、だれもが楽天的な
幸福感を感じていたらしい。それは戦時の、身近な多くの人の死や、自分もいつ死ぬか
もわからない、って不安から解放されて、もうその心配はないんだ、って気持ちからも
来てたんだろうけど。衣食住に困る状況でも人は幸せを感じることができる、ってわけ
なのに、現代では、それらが十分だったとしても希望を失うことができる、ってことは、
その希望ってもんが、自分では見つけにくく、戦後の焼跡レベルより贅沢な「一律なも
の」になってて、他人より下はやだ、って自分と他人とをくらべ過ぎてるせいなのかも
しれない。
以前、東南アジア取材のドキュメントで、腹ぺこのストリートチルドレンになにも与え
ることができなかったテレビスタッフが明日の晩ここでチョコレートを上げる、って伝
えると、子供たちは大喜びではしゃぎながら闇に消えて行ったのを見たことがある。
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