9/16のしゅちょう             文は田島薫

(許すってことについて)

犯罪の被害者などが、加害者に対し、絶対許さない、とか、許す事はできない、

とか言う言葉を使うのをよく耳にして、聞いた方も、そうだそうだ、って同感

することが多いんだけど、それが、ひとつの常識的な条件反射のようになり、

誰かが何かの過ちを犯した時、すぐに「許してはいけない」などと言ったりす

ることが立派な判断である、ってみんなが考えるようになるとすれば、それは

本当にいいことなんだろうか。

先日もロシアの相撲取りがマリファナを所持してた、ってことで、当人が心か

ら後悔しわびてるにもかかわらず協会から聞きいれられず解雇された。

いけないものはいけないんだ、ってだけで、切ってしまえばもう、自分達の筋

は通せた、って言うなら、逆にその切る側の責任なり義務なりは完璧に果たさ

れたあげくの措置だと言い切れるのだろうか。

国技であるのに国内の人材の乏しさを海外に求め、生活習慣も考え方も違う才

能に言わばお願いしてスカウトしたはずなのに、それへの、例えば日本人の国

技である相撲道の精神的義務などをきっちり伝える努力はしたのかどうか、し

たのであれば、マリファナを吸うことが解雇に値するぐらい重大な違反行為だ、

って十分にわかっていて犯した、ってことになるのだけれど、当人は、そんな

こと夢にも思わなかったらしいのだから。

それに、人を罰するには、それに値する覚悟と資格がいるはずで、それをする

当人が、一度も過ちを犯したことがない、って場合の他は、自分が犯した過ち

からどう立ち直って来たかよく考えることをお勧めしたい。

ほとんどの人々はなんらかの過ちを犯しては反省修正して来たはずで、だって、

人が向上心を持って成長する過程にはいつもそれがつきまとい、その過程こそ

が人の生きる意味と言ってもいいぐらいのことなのだから。

心から悔やんでいる人間を許し、チャンスを与えることができる人間のことを、

古来から寛容といって大人物の例えにされてるぐらいのことなのだ。

どうしても許せない、って思う感情を捨てられない被害者の気持も容赦しつつ、

大本には許しの大切さも忘れたくないもんだ。




戻る