10/27のしゅちょう 文は田島薫
(ゆとり教育について)
「個性を伸ばす教育」、っていった旧文部省の方針でやられた「ゆとり教育」が、
全国的学力レベルの低下やら教師のカリキュラムの未達成などで見直され、「個性
尊重」なんてナンセンスだ、って言う脳生理学者もいたりで、元の詰め込み教育に
戻りつつあるようだけど、そのどちらの施策も判断が短絡的じゃないのか。
「ゆとり教育」の場合は、全体の教科のレベルを下げたり、授業時間数を減らした
り、試験結果の順位発表などに消極的になったりして、生徒の学力の見せかけの平
均化を進める一方、外ではその不足分を補う塾などが隆盛するといった矛盾。
じゃ、詰め込み教育に戻ればいいのか、って、ひたすら受験競争のために、ほとん
ど実社会では無意味な些末な知識を全国的に全生徒に憶えさせて、受験時の合否の
差別化を計るだけのナンセンスを教育界全体で押し進める矛盾。
フィンランドでは、日本の「ゆとり教育」と同じように授業時間が短いのに、学力
レベルが高いのは、その授業内容のクオリティの高さなのだ。
生徒個々の勉学動機になる、わかりやすく知的好奇心を刺激する授業、個々が自発
的にものを考える力を養うきちんとした教育工学、おちこぼれをフォローするきめ
こまかい対応や留年を普通のシステムにする実のある授業料無料の教育。
一方、日本では、基本はただ受験に勝ち抜くだけの詰め込み暗記教育。授業時間カ
ットして、塾に行く経済的余裕のないおちこぼれは、ほったらかし、って教育。
生徒個々の興味を引き出して、個々の個性を尊重して行くのが「ゆとり教育」の目
的だとしたら、大学受験のシステムやら受験教育の本質的改革抜きにして、ただ見
せかけの競争廃止の平均化授業や、押し付けの道徳授業なんかをやってちゃ、どん
どん世界の教育レベルから全員平均化した無個性の顔したまま団子状でおちこぼれ
ちゃう怖れがあるけど、いいのか、教育界と文部科学省とわれわれ。
戻る