3/5のしゅちょう 文は田島薫
(芸術の本質、について)
巷で音楽やら絵画やらそれを自分で創ったり鑑賞したりして楽しんでる人の数は、その内
容を問わなければほぼそこいらの全員、って言えるんじゃないかと思うんだけど、その価
値の本質、ってもんをきちんと理解してる人は少ないように感じる。
価値だとか本質だとか言ってないで、ただ見聞きして楽しいとか、なにか心に沁みる感覚
を持てればうるさいこと言う必要はないしそれで充分じゃね〜か、って言われればその通
りなんだけど、それだけじゃ納得できないのも、それを専門としたり追求したりしてる者
たち多くの立場なのだ。
だから、そういったことについていろんな意見を言ったりする専門家たちもいるし、それ
についての考えを持ってても自分の心の中だけに仕舞って黙ってる専門家もいる。
芸術家のだれかが、その本質は目に見えないものを表現するところに集約される、てなこ
とを言ってたんだけど、これは至言かもしれない。
芸術家が苦悩したり試行錯誤で悪戦し続ける理由は、いまだかつてだれにも表現されたこ
とのない、自分の内部から沸き起こる感受のイメージを具現化したい、って強い本能的意
志がなせることなのだ。
だから、すでに表現の様式なりが定まって結果が安心して見えるようなもの、たとえば、
色々な時代の流行に沿って、似たり寄ったりの2番煎じ3番煎じのようなものは、芸術家の
仕事としては本質をはずしてる、ってことになるわけなのだ。
とは言うものの、一度独自な表現をした芸術家がその自分独特の表現を同系列なりにバリ
エーション展開する、ってことに関してはまだ本質の中にいるのかもしれないんだけど、
自分のスタイルを創って評価された後、その表現方法をずっと踏襲してやって行く者と、
常に新しい表現方法を試みて行く者がいたとしたら、後者の方がより芸術の本質を体現し
てる者と言えるのかもしれない。
とは言え、芸術家自身にも安定した評価や報酬を望む権利はあるだろうし、それを鑑賞す
る側に立てば、より完成度の高い何回目かの踏襲表現の作品に感心することの方が多いん
だろうから、それができればなんでもいいか〜、って、最初の話に戻ったりも。