4/11のしゅちょう
            文は田島薫

反対意見の生かし方、について


だれにでも経験があることだろうけど、自分が何か物事についての判断を語った

時、そばにいただれかにすぐさま、それは違う、などと言われた時、自分でもこ

れはどうかな、ちょっと自信がないから、だれかの意見や反応を見てみたい、っ

て言う場合ならたいてい大丈夫なんだろうけど、自信持って言ったことに対する

反応だった場合は不快な気分になることが多いはずだ。

それでも、最初否定されて不愉快でも、こちらの間違ってる理由を相手が充分な

説得力を持って説明ができたなら、その不快感も大分解消するだろう。

ところが、たいていの日常会話でひんぱんに行われてるのは、さして根拠がない

にもかかわらず、自分の意見を主張したい、ってだけで、ほとんど相手の意見の

意味もよく理解しないまま、違う、って言ってしまうタイプの人間がけっこう多

い、ってことなのだ。って、言い切ってしまったけど、身内なんかからの批判を

考えると、けっきょくは、このタイプの中に多分私も含まれるようだ。

だれでも、自分は相手の言ってることを理解してそれについて、いいとか違うと

か言ってるつもりなんだけど、学術論文と違って日常会話では、多くのことが人

の推察にまかせられ、省かれた表現になるため、自分の意識にはずれた部分につ

いては本当はわからないはずなのに、自分の意識の中で組み立てられた筋書きで

いいとか悪いとか判断してるだけだ、ってことになかなか自分で気がつかないも

のなんで、おたがいに、そっちが違うんだ、って言い合いになったりする。

だから、相手の話を聞いた時、間違ってる、って感じた時でも、なぜ、相手はそ

ういうことを言うんだろうか、ってよく考えてから、相手を否定する表現はでき

るだけ控えて自分はこう思うんだけど、ってことを言うのがいいんだろう。

さっき、テレビで認知症の人に、否定的な発言をするんじゃなくて、その人に寄

り添って肯定的な表現を続けると症状が改善して行く、って実証実験をしてたん

だけど、認知症の人だって、自分の考えの筋道を否定されることは不快なはずな

のだし、どんな状況の老若男女だって、自分を粗末に扱う人間とつきあいたいと

思う者はいないはずで、そういった関係でいくら意見の交換しても不毛だろう。

仮に一方の発言が論理的にいくら正しくても、もう一方の相手の発言にはちっと

も耳を貸さないというならば、その相手はその論理を受け入れることはないだろ

う。逆に、もしも、間違ってると感じた相手の意見の中の肯定できる部分を受け

入れて、その理解を示したなら、鏡のように、一方ももう一方を、もっと理解し

たい、って気分にもなるもんなのだ、多分。




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