11/16の日記          文は田島薫

親父の死

入院して以来、肺炎も治まり後は嚥下力さえ取り戻せれば大丈夫、ってことで、

そのリハビリをさせてた親父も、やはりそれの最中に眠り始めたり、だんだん呼

び掛けへの反応も鈍くなって来てたんで、ちょっと無理かな、って感じてたもの

の顔色はいいし、とりあえず安心、回復の奇跡も信じたい、って感じでさいたま

に帰ってたところ、親父の入院してる病院から電話、危ない情況になってるんで、

その時は早めに連絡するから、親族はかけつけた方がいい、って言われた。

で、翌朝、おふくろからの電話で、血圧が異常に下がってて危機情況だから、っ

て病院からあったんで、すぐ病院へ行ってる、って言うんで、私と家人も荷造り

してから散財タクシーでとりあえず両親の家へ行ってから、おふくろが手配した

友人の車で行こうとしたら、こちらの説明不足による打ち合わせの誤解で、けっ

きょくその友人はわれわれを乗せないまま病院へ向っちゃったようだった。じゃ

タクシーで、って言ってる時に病院から電話で永眠を知る。

病院へ着いてから、先に着いてたおふくろの友人の携帯を借り、葬儀社へ連絡、

来た遺体搬送車に私も乗って家人らより早く家に着くと、翌日は近所の組合と葬

儀社と両親の家で葬儀の打ち合わせ、組合員12名の他は親族のみによる簡素な

葬儀を予定、翌日は、組合不参加の近所に住む2〜3組の親戚と家族だけの通夜

の予定が、おふくろが複数参加している地元婦人文化クラブの仲間らが次々焼香

に訪れ、小さな玄関から狭い廊下までぎっしりに読経する坊さんを囲んだ。

そのまた翌日の葬儀・火葬・告別式・初七日・三十五日・納骨までを簡素にまと

めた小さな祭壇による儀式にも、さいたまや群馬からの親戚やら、おふくろ関係

で予想以上の人数参列になり、喪主にされ、上がってる私の挨拶の声は時々とぎ

れちゃったんだけど、それは悲しみのあまりで、って取ってもらえたらいいんだ

けどな〜、って期待したのだった。




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