5/31のしゅちょう
            文は田島薫

(自然への敬意、について)


けっきょく究極の美は自然の中にしかない、って極論したい「気分の」私は、

美術的な教育を受けたり表現をしたり、色々なアーチストたちが表現する建

築やら道具やら絵画やら彫刻やらを見てきてるんだけど、感動させられるよ

うな人工の創作物はどれも、自然の美の本質の一部を再現してるはずなのだ。

形にしても、色彩にしても、美しいそれらの原形は有機的な自然の中に予め

存在してて、アーチストたちはそこから美を発見して行くのだ。

それを発見するには、美的本質を見抜く感受性と抽象力や構成力が必要なん

だけど、その原点はいつも自然の中にあるのだ。

それで、突然現実の社会環境を見渡した時に、特にわが国都市部の住宅地の

景観を見た時、こりゃいかんだろう、っていつも感じるのだ。

まず、機能一辺倒のコンクリの箱物や新建材を使ったノッペラボーな住居群。

ささやかな街路樹や庭木があればまだましな方で、自然を感じさせるものは

どんどん縮小されたり消え去らされたりしてる。

わが家はできるだけそういったもんを生かす環境にしたい、って考えてて、

ちょっと道路に庭木の枝が出てるのも風情で、住民にも好評なんじゃないか、

って考えてたら、そうでもない感想も多く寄せられ、道路に落ち葉が落ちる

から、敷地から1ミリも出すべきではない、って言い出すものもいたり、道

路際に大木があれば、当然のようにどんどん切り倒されて来た。

道路に落ちた葉も風情があっていいんじゃないか、って思うし、汚くなった

りする前にわが家は定期的に道路掃除だってしてるのだ。

わが家には塀というものがなくて、ヤマモモの木1本だけ伸び伸びと大きく

させたままでいる庭も、道路から子どもたちやねこさんたちの出入りを自由

にさせてるんだけど、常識ある隣人たちの家はどこも、ブロックなどで厳重

に塀で囲っていて、庭にはしょっちゅう丸く刈られてるしょぼい庭木を沢山

並べてても、あたりの環境全体の雰囲気作りまでの力はない。

土地が値上がりして、汗水で稼いだ金やローンで買った家を、ここからこっ

ちはおれんちのもんだからな、って思いたい気持はわかるけども。

昔はわが家のあたりも、森や林があったし、外壁が木板の家(今のわが家も)

ばかりで、塀もない家も多く、道路際に鉢植え置いたりして、トタン屋根に

安普請だけどきちんと本物の木の板の家がよく手入れされ磨かれてたりして

るとほんとに美しく、全体の空気感さえ自然と一体のように感じたものだ。


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