4/19のしゅちょう
            文は田島薫

(“エリート”の不幸、について)


先日ラジオを聴いてたら、日本に住む外国人の青年が YouTube である女性歌

手の歌を聴いて泣いた、って言ってたんで、YouTube でそれを聴いてみたら、

私も同じような気分になって感心したんで、FaceBook にそれを書いたら、同

意する友人も何人かいた中に、無関係な話で申し訳ない、ってことわりつきで、

伴奏のピアノの高音部の使い方に欠陥がある、ってコメントをした友人がいた。

何人かがなにかを素晴らしい、って誉めあってるところに、飛び入りして、で

も、これにはこういう問題点が、って言う必要はないんで、瞬間、おいおい、

って思ったんだけど、私自身同じようなことをよくやってるし、どんなことで

も感じたことを忖度なしに率直に表現することには好感さえ感じるわけで。

とは言っても、一般的には話に水を差すってことで、批判されることも多いは

ずで、実際私自身もジャンルは違うんだけど、ナンセンスのいたずらでひとり

よがりの冗談みたいなことでそれを経験してることと比べたら、この「正しい」

情報提供には私のよりずっと高度な志しさえ感じるわけで。

音楽の表現では、クラッシク演奏コンクールのように、技術的な未熟さが少し

でもあれば落とされてしまうものから、パンクロックのように、相当なラフな

技術でも感情が出せてれば認められるものまであって、即興演奏が重視される

ジャズなども、楽譜通りに演奏するクラシックなどより技術的な問題点はバレ

にくいかもしれない、といった意味でも私はそういった方に共感が。

いずれのジャンルにしても、耳の肥えたファンや聴衆がいるわけで、技術的な

巧拙の違いはすぐにわかるわけだし、プロとして活躍してる一流の音楽家の演

奏に、とても聴いてられない、って感じる者は少ないはずで、頭の友人のコメ

ントにしても、クリアーに鑑賞して一旦、感動の涙を浮かべた後で、どうして

も、音の一部に気になるところがあったんで、ってことだったのかも。

一流の音楽家の演奏を知っていて、それより問題のあるものが気になってしま

う、ってことは仕方ないことだろうけど、それがどんどんエスカレートして行

って一流音楽家を聴き比べては粗捜しするようになるんだとなんかのオタクで

ほっとくのがいいと思うんだけど、粗捜しするつもりがないのに、音質やら精

度についての感性が鋭かったり、知識が豊富だったりで、だれかの演奏を自然

体で楽しむことができなくなったとしたら不幸なことだろう。

私自身、受けた美術教育で一時そういったトラウマを感じたことを思い出した。


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