●連載
虚言・実言         文は一葉もどき


横浜が縄張りの元タウン誌ライター。
貧しさにもめげず言の葉を探求し、人呼んで“濱の一葉”。
ウソ半分、ホント半分の身辺雑記を綴ります。
もどきさん、命の輝き、について思いを巡らしました。



芽吹きの頃


桜が散り始めて、代わりに木々の若葉が主役に躍り出た。

お使いのとき、いつものように公園プールにあるお気に入りのケヤキを見上げると、

まだすっきりした裸木だけどてっぺんのレース状になった小枝はもうほんのり緑がか

っている。

そしてプール周辺の柳たちは、冬の間痩せたお化けのように揺れていたのが、すっか

り若草色の葉をたっぷりとつけ大きな万燈のようになって、わずかな風にもゆさゆさ

と踊っている。

我が家の柿も透き通るような若葉だし、もみじも繊細な白っぽい芽をつけ、ヒメリン

ゴはすでに白い花をびっしりつけるなど、日に日に落葉樹が息を吹き返しているのだ。

今年はまるで北国のように一気に春がきた。

幼い緑は、柔らかで、やさしく、けなげで、しかも日に日に緑の表情を変えていく。

春は美しい。

恐ろしいほどに美しい。

今年はなぜこんなに芽吹きの春に心を打たれ、愛おしいと感じるのだろう。

そう、年齢のせいかもしれない。

若い時は目先の目的しか視野に入らず、時間に追われ、今あることが永遠に続くよう

な感覚だった。

変わりゆく若葉の変化などしみじみ感じる余裕もなかった。

植物が冷たい北風や雪などにさらされ耐え忍んだ挙句に今の春を迎えたことに思いを

寄せるなんてこともなく、今がすべてであった。

最近になって私の周囲は、老いるひと、病気になるひと、命を落とすひとがふえて少

しずつ変わりつつあるせいか、誰もがやがて命が尽きる日がくるということが実感と

して胸に迫ってくるのである。

人の寿命というのを自覚するようになったのだ。

何のためにこの世にきたのか、何をしてこの世を去ることになるのか、わからないま

まに、やがて、私も今生きている世界から出ていく日がくるのだろう。

それがいつ、ということはわからないけれど、確実にやってくる。

それが視野にはいったとき、自然と生きとし生けるものすべてが愛おしく、共に生き

てきたことに思いを寄せるのだろう。

さまざまな艱難辛苦に耐えたのちに再生する春は希望であり、生命力であり、包容力

であり、癒しなのである。


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