●連載
虚言・実言         文は一葉もどき


横浜が縄張りの元タウン誌ライター。
貧しさにもめげず言の葉を探求し、人呼んで“濱の一葉”。
ウソ半分、ホント半分の身辺雑記を綴ります。
もどきさん、なにか確信したようです。



記憶に生きる


夜の11時頃だったと思う。私はすでに布団に入っていて音楽を聴いていた。

遠くで救急車が鳴っていると思ったら、音がたちまち近づいてきて、うちの前で止まった

ではないか。えっ、と驚いて2階のベランダから覗くと、お向かいの家が慌ただしい。

お向かいさんは70代の夫婦二人暮らし。ご主人は定年退職して悠悠自適でお元気そうだ

し、奥さんもちょっと体が弱いと言っていたけど熱心に家事をこなしていたし、どうした

のだろう。

近所の人も何事かと出てきていた。そして見守るなか、奥さんが担架に乗せられて救急車

に運ばれていってしまった。

何が起こったのだろうか。事故だろうか。わからないまま時が過ぎた。

それから二日目の朝、お向かいのご主人から電話があって、

「家内が亡くなりました。間質性肺炎でした」

ショックだった。信じられない。数日前に玄関を掃除する奥さんと挨拶をしたばかりなの

に。そんなにあっけなく亡くなってしまうなんて・・・ 

お向かいさんとは引っ越して30年以上の長い付き合いである。奥さんはガーデニングが

好きで、草花をくれたり、夕食のレシピを教えてくれたりと交流があり、浅からず深から

ずのとてもいい距離感のお付き合いだった。

弔問に訪れるとご主人の勧めでご遺体と対面した。いつもと変わらず穏やかで今にも笑い

かけてくれそうだった。

私はすっかり動揺してしまった。

こんなにあっけなく死んでいいのだろうか。

当の奥さんだってあまりに突然な死でさぞ無念だったろうに…

人はつらいとき苦しいとき、死んだ方がましだとは思うことがあるが、その苦しさが軽く

なれば、また生きようと思うものだ。再び新たな苦しさがくることがわかっていても。

死ぬのは怖くなかったか。

そして死ぬとはどういうことなのか。

存在がなくなるということ?

唯物論者は死ぬことは無になることと言うが、果たしてそうだろうか。

私には死んだ奥さんの思い出がある。思い出すとき奥さんはいきいきと動いて生きている。

その記憶が私の心の中で消えない限り、奥さんは完全に死んではいないのではないか。奥

さんを知る人たちがいる限り、記憶が消えない限り、生き続けるのではないだろうか。


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