思いつくまま、気の向くまま
  文は上一朝(しゃんかずとも)


シャンせんせいのガンリキエッセー。
シャンせんせい、異文化と遭遇したようです。





ゼンゼン ダイジョウブ


年をとると異文化の理解がおそくなる。動作ならなんとか理解できるのだが言葉はそう

はいかない。もしかすると理解のまえに拒絶反応がおきているのかもしれない。


先日、街を歩いていてタバコを吸いたくなった。いまはどこへ行っても禁煙である。し

かたがないのでコンビニの喫煙所で吸うことにした。そこでは二十歳そこそこの女性が

弟らしい少年とゲームの話に興じながらタバコを吸っていた。話のじゃまをしないよう

にはなれたところでタバコに火をつけようとしたら火がつかない。しばらくライターを

カチカチさせてから見てみるとガス欠だった。しかたがないのでその女性に「すいませ

ん火をかしてください」というと「あっゼンゼン ダイジョウブです」といってライタ

ーをとりだし、そのうえ火までつけてくれた。

ありがとうといってタバコを吸いながら考えてしまった。なにが「ゼンゼン ダイジョ

ウブ」なのだろう。自分の理解では、ゼンゼンはまったくであり、否定を指す。「ダイ

ジョウブ」は言葉のとおり大丈夫すなわち安全と受けとる。この文脈でいくと見知らぬ

おじさんに火を貸してくれと言われたので「見知らぬあなたに声をかけられたけど、わ

たしはへんなおじさんだと思っていませんから安心してください」となってしまう。


この「ダイジョウブ」は、ほかでも聞く。行きつけの床屋で頭を洗っている時に「指の

強さダイジョブですか」と聞かれる。たしかに力が強すぎるときは「ダイジョウブ」で

はないのでその意味はわかるのだが、力加減がちょうどよく気持ちがいいときはなんと

答えればよいのか毎回考えてしまう。


いまの若者の言葉は、意味ではなく音でなりたっているのではないか。若者の会話を聞

いていると「ゼンゼン」も「ダイジョウブ」も絶妙な音でつかわれていて会話をなめら

かにしている。それは場の言葉と受けとればなにも目くじらをたてることもないだろう。

しかし、場の言葉だからといって気安く受け取ってはいけないのが政治家のことばであ

る。いま、選挙のまっただなか。選挙演説のなかにでてくる「ゼンゼン ダイジョウブ」

は絶対に「ダイジョウブ」ではないから気をつけなくてはいけない。

タバコを吸いおわってその場をはなれるときに「ありがとう」といったら「ダイジョウ

ブです」と返ってきた。これはなんと理解したらいいのだろう…


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