●連載
虚言・実言         文は一葉もどき


横浜が縄張りの元タウン誌ライター。
貧しさにもめげず言の葉を探求し、人呼んで“濱の一葉”。
ウソ半分、ホント半分の身辺雑記を綴ります。
もどきさんが見た世間の人々の諸事情(?)シリーズの1。



世間話シリーズ

ある八百屋の話


彼は60代になったばかりというのにとても疲れていた。

今どきの60代というのはまだまだ働き盛り。なのにやる気がでない。

家業である八百屋が行き詰ったのか、といえばそうではない。むしろ繁盛をしていて、つい最

近パートの主婦を増やしたばかり。ならば家庭的にうまくいっていないのか、さにあらず。小

太りで客あしらいの上手なおかみさんと仲良くやっている。健康上の理由? いや、とてもそ

うは見えない。外見は細いけど血色もよくきびきびしている。

ならばなぜ? と誰でもがいぶかしく思うほど、とにかく彼は商売繁盛のさなか、突然店を閉

じてしまったのだ。

彼は小さいながらも父から相続した3階建てのビルのオーナーでもある。ビルは駅から2分、

駅への通り道にあたる商店街のど真ん中で立地条件は抜群。

1階を自分が営む八百屋に使い、2階を皮膚科、3階を学習塾に貸していた。

彼はもともと八百屋を継ぐ気はなく、大学を出てサラリーマンをしていたのだが、父親が死ぬ

とビルと共に家業の八百屋を継いだというわけだ。

彼は朝早くトラックを駆って仕入れに行き、パートの主婦と一緒に野菜を並べ、10時頃開店

する。大量仕入れ大量販売を目指し、価格を安めに抑えて新鮮さをウリにしていたので、厳し

い目をもった主婦の間でも人気は高まり、夕方にはほとんど売り切れるほど。いつしか“行列

のできる八百屋”として地元には欠かせない存在なのだった。

その八百屋が突然閉店し、ずっと灰色のシャッターを下ろしている。

多くの人が行き交う商店街の一角で間口の広い店のシャッターは無粋であった。なにか、ぽっ

かり穴が開いたような、温かいものが失われたような、そしてこの町がだんだん寂れていくの

を暗示しているような寂しい思いにとらわれるのだった。

「八百屋って、結構力仕事じゃない。奥さんと皆パートのおばさんばかりで男手ひとつだった

ので疲れちゃったのよ。男のパートを入れればよかったのに」

「あれだけ繁盛していたんだから後継者をたてればいいのにね。もったいない」

「ビルは持っているし、たっぷり稼いで大金持ちになったので、もう働く気なくなったんじゃ

ないの」

「あの旦那、なんかインテリっぽかったわよね。八百屋が性にあってなかったんじゃないの」

巷の主婦は勝手なことを言って残念がった。

そして数か月後、跡地にテナント料35万円という噂のもとに同じように八百屋が入った。た

だしスーパーで扱うような包装された野菜と果物が並んだ。

「やっぱり、あのテナント料じゃ品物を高くしなきゃね」ともっぱらの噂。

さらに、以前の八百屋の店主が大きなコントラバスの楽器を背中に背負って歩いているのを見

たという人が現れた。


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