●連載
虚言・実言         文は一葉もどき


横浜が縄張りの元タウン誌ライター。
貧しさにもめげず言の葉を探求し、人呼んで“濱の一葉”。
ウソ半分、ホント半分の身辺雑記を綴ります。
もどきさんの一家が大変な時期、住んでた街の思い出。



シリーズ 街角感傷

高田馬場


私は一時高田馬場に住んだことがある。

ちょうど印刷屋だった家が破産したあと、再興を目指して一家が懸命に努力していた頃

である。

高田馬場駅の前を通る広い早稲田通りを5分位歩いてちょっと横丁に入った二階家を借

り、一階は工場で二階は家を継いだ長姉一家が住んだ。両親、次姉、私は近くの諏訪町

に間借りした。

次姉は就職していて社会人、私は学生で、両親は昼間工場へいっているのでほとんど諏

訪町の家は寝にくるだけであった。

高田馬場駅をでると、早稲田通りは商店街が並び、人通りも多く看板やらネオンやらで

いかにも都会的な夜遅くまで賑やかな街である。早稲田大学の最寄りの駅なので学生も

多く、その頃流行りの音楽喫茶も何軒かあった。

父はこんな騒々しい街をきらっていた。

早くこの街を脱出して、そして間借り生活からも抜け出して、落ち着いた工場付き持ち

家に住みたいと言い続け、年頃の娘がいるのにこんな所から嫁にも出せないとも言って

いた。

私と次姉はほとんど昼間いないので、高田馬場周辺はあまりなじまず、土地勘もない。

寝に帰る諏訪町の家は静かな住宅街で、学生を下宿させる家も多かったように思う。

ある日、私が工場のある家に帰るなり、姉が、

「今日早稲田大学の自由舞台の加藤剛さんが来たの」

と興奮気味に言った。

その頃、早稲田の自由舞台といえば、盛んに活動している演劇集団で、我が家は近くの

よしみなのかプログラムやパンフレットなどの印刷物を引き受けていたようだ。ときど

き自由舞台の演劇部員が打ち合わせやら校正やらで立ち寄った。

「やっぱり、加藤さんだけは他の人と違って抜群にいい顔しているわ。ああいうのを役

者顔っていうのね」

長姉はすっかり加藤剛さんのファンになったようで今日は来た、来なかったなんていち

いち私に報告するのだった。

時を経て加藤剛さんは著名な俳優となって大活躍している。今思うに私が一度も会う機

会がなかったのは、残念でならない。


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