思いつくまま、気の向くまま
  文と写真は上一朝(しゃんかずとも)


シャンせんせいのガンリキエッセー。
センセー、新しい世界に入れたようです。



おさめのとり




「22日はお酉さまだ。ことしは二の酉までしかないぞ、行くか」というと、「まだ行

くの」と老妻が批判的に答える。

てやんでぃ去年の熊手を納めないでほこりだらけにしておけるか、てめえぇが行かねえ

んなら…と、ちょうど姪っ子とひさしぶりに飲もうという話になっていたのでそちらに

ふると二つ返事がかえってきた。

それを老妻に話すと「聖子が行くのならわたしも行く」と手の平をかえしてきた。

ところが20日になって「ひどい風邪をひいて会社を休んでいる。だいぶよくなったけ

どいかれそうもない」とメールがはいった。老妻にそれを告げると「聖子が行かないん

ならわたしも行かない」とまた手の平をかえしてきた。


じつは今年の酉の市はひとりで行きたかった。

こどものころから酉の市は思いだしたように行っていたが、会社をはじめてから、「商

売人にはお酉さま」といちども欠かしたことはない。

ところがこの秋、最後までのこっていた仕事をやめた。ここのところ医者通いがふえて

きた。万が一を考えて迷惑をかけてはいけないと考えていたところに先方から仕事が不

定期になるという話がきた。双方ちょうど潮時と円満に仕事をやめることが出来た。

そんな気持ちで拝殿にたつと、迷信だといわれるだろうが、心から「おせわさまでした」

という言葉がでた。こういうときはひとりがいい。社務所のまえを通り過ぎながら、お

酉さまも今年限りだ、もう来年の熊手を買わないでいいんだと思うと心が解き放たれた

気がした。仕事というものは、たったひとつでもそうとう神経をつかっていたことがわ

かった。


軽くなった気持ちで熊手売りのあいだをあるいていると、歳のせいか足が不自由な老夫

人が熊手を買ったところに出会った。けして大きな熊手ではなかったがなにか意味があ

るらしい。手締めをしようというときになって老婦人が立ち上がろうとするのを「その

まま、そのまま」とやさしく言う、おそらく熊手の意味を知っている親方の慈愛にみち

た笑顔をみて思わずシャッターをきった。なにかの束縛から解き放たれるということは

これほどに感受性をゆたかにするのかと…。


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