思いつくまま、気の向くまま
  文は上一朝(しゃんかずとも)


シャンせんせいのガンリキエッセー。
現政権のおかげで、センセーの怒りと嘆きのネタは尽きません。



徳の道はいずこに


道徳教育を教科にする動きがある。

教科となると勉強の結果を評価し採点しなければならない。すなわち学業の成績となる。

その評価採点も専門の教師ではなく一般の教師、担任がやるそうだ。

道徳なんていうものは、教師が10人いれば十の見方の道徳があるはずで、一人の教師

が正しく冷静に評価ができるのだろうか。

もっとわるいことにこの教科書は「くにさだきょうかしょ」になるという。これでは世

の中に正しい道徳というものはひとつしかないということになる。国が白と決めたこと

は、黒であっても白と言わなければならない。こんな危険なことはない。

たしかに道徳教育というものは必要である。しかし、それは国家がおしつけるものでは

ない。

学校で道徳を学んだ子供たちが社会、いやそんな大げさな物でなく家庭に帰れば道徳と

は無縁の親のもとで暮らさなければならない。国定道徳教育をもくろむ輩はこのギャッ

プをどのように埋めようと考えているのだろう。まさか道徳を身につけた子供から親が

学ぶとでも思っているのだろうか。親と学校とどちらを信じてよいのかそのはざ間にと

まどい、犠牲になるのは子どもたちである。道徳というものは、現在のように副教材レ

ベルで根気よく身につけさせるものだと思う。


犠牲と書いたがこれには実例がある。

戦前、戦中の教育を受け、小学校で敗戦をむかえた子どもたちがこの犠牲者だ。

一夜にして価値観がひっくりかえり、昨日まで正しいと信じ込まされていた教科書に墨

を塗らされ、なにを信じていいのかわからない社会にほうりだされた。

老生の兄はこれにあたる。戦後復興、高度成長期にはそれなりの働きをしてきたが、ど

こか人や社会を信用していないところがある。それはそうだろう。いちばん感受性の強

いときにすりこまれた価値観が崩壊したのだから。心底から信ずるものがない人生とは

どんなものであろう。これから国定道徳をつめこまれる子供たちは必ず同じ道を歩むこ

とになる。

それに学校教育という形でつめこまれた道徳というものはいかに軟なものであるかは、

戦前「修身」という道徳教育を学んだ大人たちが戦後とった行動をみればわかる。昭和

30年代汚職にあけくれた議員や役人はみな「修身教育」を受けているのだ。


道徳というものは、国が定めて学校教育でつくるものではなく社会がつくるものだ。こ

れはサッカーの国際大会をみればわかる。国はやっきになって学校で国歌を歌わせよう

としているが、サッカー場にいる彼らは誰に強制されたものでもないのに国家を歌って

いる。

このように、その社会で自然に発生してくるものが本当の道徳であり愛国心ではないか。

現在のように政治が一貫性を欠き経済最優先の社会では、上に立つものが襟を正さない

かぎり、いくら国定道徳をおしつけてもかわいそうな子供を作るだけで、その結果は無

駄というものであろう。


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