●連載
虚言・実言         文は一葉もどき


横浜が縄張りの元タウン誌ライター。
貧しさにもめげず言の葉を探求し、人呼んで“濱の一葉”。
ウソ半分、ホント半分の身辺雑記を綴ります。
老人の目と脳裏に突然見えてきたものは…。



シリーズ 街角ストーリー

遠花火


老人は散歩を日課としていた。

今年の夏は暑い。老人は日盛りの日中を避けて、夕食後に夜の散歩をすることにした。8

時頃、まだ昼間の熱気は抜けてはいないが、時々僥倖のように涼やかな風に出会うと、生

き返るような気持ちになる。

そして、目を射抜くような強い日差しから解放されて、住宅街には真っ暗とはいわないま

でもしっとりとした闇が降り、ああ、今日も一日永らえて終わった…という安堵感も手伝

って心穏やかなひとときであった。

その日も夕食を済まして、ぶらぶらと町内を歩き始めた。月は見当たらない。

そのとき突然、ドーンという音がした。その音は腹の底に響くような音である。驚いて立

ち止まり、空を見上げると、東の空がパッと明るくなり、丸く火花の輪が少しだけ見えた。

ああ、花火か、今日は花火大会があるのだと老人は気がついた。花火を見に家族と港まで

行ったのはいつだっただろうか…遠い日のことだった。

老人は思い立って花火の見える高台まで行ってみようと街角を曲がった。

坂道を上っている間も、次々と音がなって、花火が上がり気持ちが高揚してきた。振り返

ると、連なっている住宅の屋根の上で光の輪が大きくはじけている。坂の途中で小学校の

裏門の小さな階段を見つけ、そこに腰を掛けると老人はしばらく花火にみとれていた。

やがて、ちょっと間があってから、仕掛け花火らしく暗い夜空にパチパチとはじける音と

爆発したような閃光があがった。さすがに遠いので仕掛け花火の様子は見えない。ただ東

の空が白い煙とともに真っ赤になったのだった。それは火事の炎のようにも見える。

そのとき老人はふと過去のある光景を思い出した。1945年3月10日の東京大空襲で

ある。老人はまだ幼かった。疎開した東京に近い千葉県の片田舎で母親と弟妹と一緒に同

じように赤く焦げる空を見ていた。

「東京が燃えている…お父さんは大丈夫だろうか…」と母親が呆然としてつぶやいたのを

覚えている。父親はまだ東京に残っていたのだ。翌朝母親はすぐ東京に向かったが、家は

跡形もなく焼け、ついに父親の行方はわからなかったのだった。

老人は赤く花火の余韻を残す東の空を見ながら、母子家庭に襲った戦後の苦労が次々と思

い出された。

老人は頭を振った。

(折角夏空を彩るきれいな花火が東京大空襲と重なるなんて…ああ、私も歳をとったもん

だ。この頭にはもう過去しかないのだ)

老人はよろよろと立ち上がると再び歩き出した。


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