思いつくまま、気の向くまま 文は上一朝(しゃんかずとも)
シャンせんせいのガンリキエッセー。
シャンせんせい、われわれは歴史の作られ方を自覚しよう、って。
歴史に生きる
歴史というものは文字か映像のうえでしか知る方法がありません。その文字も映像もそれ
をつくった人の主観がはいっていてすべてが正しいとはかぎりません。
近世この主観の偏りによって歴史の全体像がゆがめられたものがふたつあります。
日本の軍事政権とヒトラーによるナチス政権がそれです。どちらもその後半に犯した罪に
よりすべてが悪政下にあったように思われてしまいました。
日本においては腐敗した政党政治にかわるもの、ドイツでは過酷な一次大戦の賠償金から
のがれるものとしてその台頭は一時的にですが歓迎されました。日本の当時を知る人に聞
くと初めのうちは世の中とくべつ変わった風ではなかったそうです。
後世の歴史書から得た知恵で当時の社会を批判することは簡単です。しかし、おだやかに
進む政治の変化のもとでは将来を見据えることは難しいことだったでしょう。
さて、今はどうでしょう。
“かわるもの”として民主党政権が国民もろ手をあげての歓迎で出現しました。
そこでおこなわれていることは、国民の期待に反した消費税値上げと原発の再稼働です。
どちらも合理的な説明はされていません。野田首相は「精神論だけではすまされない」と
いう精神論で原発再稼働を強行しようとしています。消費税問題もやや精神論にかたむい
てきました。とは言っても両方とも国民全体から猛反対をうけているわけでもないのです。
歴史というものは、このように日々の平凡な生活の連続でつくられていきます。
後世の歴史家は、あの時代は大地震、大津波、原発事故とそれに続く消費税、原発再稼働
に対する政治の迷走、と大変な時代であったと書くのでしょうか。それとも国民の英知が
それを克服したと書くのでしょうか。
今日も期待から裏切りへと、ことは穏やかに進んでいます。
歴史というものはいまを生きているわれわれが作っているのだと考えると、すこし将来を
見据えてもいいかな、と思ってしまいます。