●連載
虚言・実言         文は一葉もどき


横浜が縄張りの元タウン誌ライター。
貧しさにもめげず言の葉を探求し、人呼んで“濱の一葉”。
ウソ半分、ホント半分の身辺雑記を綴ります。
もどきさん、その感覚が忘れたころにいつもよみがえるようです。



鍵を失くす

ある集まりに出るため駅へ行くのに自転車で出かけた。近くのスーパーの駐輪場に自

転車を置き、そのあと歩いて駅へ行き、帰りにはそのスーパーに寄り買い物をして帰

ろうという算段だった。

用事が終わり予定通り帰りに買い物をして荷物を積んだとき、自転車の鍵を失くした

ことに気がついた。

たしかパスネット、家の鍵、自転車の鍵はいつもバッグの外付けのポケットに入れる

はずなのに…なんどもバッグの中を探すが見当たらない。思い当たることはパスネッ

トにホルダーがついているので、駅でパスネットを取り出すときに小さな自転車の鍵

がからまって落としたかもしれぬ、ということ。

どうしようかと途方にくれた。

実は鍵を失くしたり、忘れたりすることは1度や2度ではないのだが、そのたびに受

けるショックは恐怖に近いものだ。

それは、まるで自分の居場所がなくなったみたいな、取り残されたような、

絶望感のようなもの…


実家は商売をしていて常に人がたくさんいる家に育った私は家の鍵など見たことがな

かった。それが、結婚してサラリーマン家庭となり、一戸建てに住むと鍵は防犯上大

きな役割を担うことを知ったのだが、習慣上私はたびたび窓やドアの鍵を掛け忘れて

よく夫に注意されたものだった。

鍵は“鍵を握る”とか“キィパーソン”とか大事なものの象徴的存在なのだ。

もしかして私が、用心悪いのも、思いつきで動くのも、詰めが甘いのも、だらしがな

いのも、鍵の存在感をきちんと把握していないからだろうか…


さて、動かぬ自転車を前に途方にくれている私は、このまま自転車を置き去りにしよ

うか、鍵を壊そうか、思い巡らしていたが、ようやく家にスペアキィがあるのを思い

出した。

重い荷物をぶら下げて歩いてまず家に帰り、スペアキィをつかんで再びスーパーへ行

き、ようやく自転車で戻ることができた。

スペアがあってよかったと後日、私はまた鍵を失くしてしまうことを考え、スペアキ

ィを作ろうと鍵屋へ行ったのだが、自転車の鍵は小さく型がないので作れないとのこ

と。鍵は絶対失くしてはならない、ということを肝に銘じた。


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