思いつくまま、気の向くまま
  文は上一朝(しゃんかずとも)


シャンせんせいのガンリキエッセー。
歳を重ねたシャンせんせい、ものごとへの哀惜の念も深まって来た模様。



わらい泣き

泣き笑いという言葉がある。

最近言葉の誤用が話題になっているので調べてみると、『泣いているときにそばで滑稽な

ことがおこり笑う事』とあって、わらい泣きという言葉はないらしい。


最近、泣き笑いではなく、笑っているときに急に泣けてくる「わらい泣き」を体験した。

神田の古本市の店先に古本の世界でいつも高値圏にある出版社の本が、雑誌一冊の値段で

出ていた。ほしいけど高すぎるという本だったので早速買い求めた。金を払いながら「こ

の本がこんな値段じゃ泣けてくるね」と、女主に話しかけると、「そうなんですよ、売っ

ているこっちが泣きたくなる」とかえってきた。

もう一つは中古カメラ店でのこと。

往年の名機を懐かしくながめているうちに値段に驚いた。昔給料3か月分で買えるかどう

かというカメラを数万円で売っている。懐かしくて思わず微笑みがうかんだのもつかのま、

買った時の苦労を思い出し、ジーンとくるものがあった。

物の値段は、需給のバランスで決まるのが市場経済の原則とわかっていても、どこか納得

がいかない。本を安く買える喜びと、懐かしいものに出会ったうれしさで思わず微笑んだ

とき、それらの置かれた状況を認識したとたんに泣けてきた。


それはどんな涙かというと…。

小学校で、女の子の告げ口でわけもわからず立たされた。中学では、秀才の兄と比較され、

教師にまでバカにされ、高校では学校のとなりにある女子高に入った同級生との立ち話を

上級生に見とがめられ、「新入生のくせに生意気だ」と、脅された。ちなみに隣のS学園

はわが男子校生徒のあこがれであった。大学では、数学が苦手なので芸術系を選んだのに、

光学という数学のかたまりに打ちのめされた。就職先で、入所手続きがすべて終わったと

ころで、理事に呼ばれた。「なんでここへ来たの」というので、「最先端をいく職場にあ

こがれた」と答えると、「気の毒だがそれは戦前のことで、いまはなにもないよ」と言わ

れた。

その理事は紳士であっただけによけいショックだった。2〜3年経ったころ抜群の美人が

入所してきた。ひとり者の男どもの争奪戦がはじまった。同じ部署で課が違うだけだった

ので若干有利だった。あるとき上司に「お前たち狙っているみたいだけど、あの娘には許

嫁がいるんだぞ」といわれた。どこやらの名家の娘だった。すました顔でつきあってくれ

た本物のお嬢さんは人が悪い。やがて結婚した。女房というものは…。これは言うまい。

昔々の情けない出来事を、懐かしさの向こうがわにいっぺんに思い出したような「おもし

ろうて やがてかなしき」涙である。


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