思いつくまま、気の向くまま 文は上一朝(しゃんかずとも)
シャンせんせいのガンリキエッセー。
シャンせんせい、一瞬自分のこだわり床屋、1000円だったっけ?って思ったかも。
庶民的
年末に風邪をひいてしまい年があけてから床屋へいった。
馴染みのマスターはときどき裏話をしてくれる。
暮に野田総理がきたそうだ。それを聞いたとたん思い浮かんだのは、彼は1000円床屋
がご贔屓ではなかったか、ということだ。確か総理就任のときの人物紹介に「庶民的で散
髪は1000円床屋にいく」と書かれていた。
この店はそれほど高くはないが場所柄一般的にいえば高いほうにはいるだろう。
まさか一国の総理が1000円床屋に行くわけにはいかないだろうから、そのことにとや
かく言うつもりはない。問題は、庶民的という言葉をふり回す政治家とマスコミにある。
もっとも野田総理が1000円床屋を強調したわけではないだろう。それを聞いた記者が
1000円イコール“庶民的”、これはいけるとフレームアップしただけのことだ。
どうも日本人は庶民的という言葉がすきだ。それ自体は悪いことではない。しかし、庶民
的という言葉にこだわりすぎると大所高所から見る目を失う。政治家は庶民感覚をもつこ
とは大切だが、庶民になる必要はない。
現在問題になっている消費税増税による財政再建も大局的にみれば正しいのだろうが、議
員定数、公務員給与削減に手をつけないで増税だけにこだわる姿はとても庶民には受け入
れられない。辻立ち1000回を自慢して庶民ズラされても困る。原敬が首相になったと
き、平民宰相と歓迎されたが明治成金貴族に政治を牛耳られていた時代とはちがう。政治
家が庶民を売り物にする必要はない。
マスコミ選挙が定着してしまった昨今、政治家を選ぶときは表看板よりもますます中身が
大切になってきた。庶民の味方を標榜する政治家とそれを担ぐマスコミくらい当てになら
ないものはない、と心すべきだ。
もう少し野田総理の散髪を書きたかったのだが、店に迷惑がかかるといけないのでやめた。
その変わりに、とんだ床屋政談になってしまった。