●連載
虚言・実言         文は一葉もどき


横浜が縄張りの元タウン誌ライター。
貧しさにもめげず言の葉を探求し、人呼んで“濱の一葉”。
ウソ半分、ホント半分の身辺雑記を綴ります。
もどきさんが、モノの所有と価値のありか、について示します。



シリーズ 震災余話

形のないもの

A夫人は気仙沼でお花やお茶を教える、ちょっとした町の名士である。

家は茶室をもつ豪邸で海から300メートルほどの低い所にあった。

あの3:11地震が起きたときA夫人はご主人と自宅でテレビを見ていた。揺れがきたと

きその大きさにオロオロするばかりで何もできず、家具の倒れるなか大きく揺れる天井を

口を開けて見ていたという。

廊下から外に飛び出たご主人が「津波が来る!逃げろ!」と大きな声で叫んで家に飛び込

んできた。その声で我に返ったA夫人は咄嗟に2階に駆け上がろうとした。2階には仕事

柄高価な着物がたくさん入っているタンスがある。少しでも持ち出したい!そんな気持ち

だったという。

ところが、ご主人が「ばかっ! どこへいくっ! すぐ逃げるんだ!」と大声で怒鳴った

そうだ。その鬼の形相に気圧されるように上りかけた階段を降りて着のみ着のまま高台に

逃げたのだった。

A夫人は言う

「あのとき、欲を出して2階に上がって着物を持ち出していたら命はなかったわ。命あっ

ての物種よね」

あれから、避難所生活を送ったA夫人は震災前と天と地ほどに違った生活を強いられた。

着たきり雀で寒さとひもじさに耐え、生き延びるのに精いっぱいの毎日。

あの、お金をかけて建てた頑丈なはずの家はなんだったのだろう。きっと地震では壊れな

かったけど、津波にやられたんだわと唇を噛む。

そして、何百万を超える着物、長いことかかって揃えた着物の数々、まだ袖を通していな

い着物が目に浮かび、悔しさで心がいっぱいになったのだ。

茶道具や花器を揃え、それらを使うにふさわしい家を造り、着物に執着していた優雅な生

活は遠い遠い昔のように感じられた。

はじめはこんな理不尽なことが起こるなんてと塞ぎこんでだけど、次第にA夫人は心のど

こかで“仕方がない”とあきらめることができた。それは避難所の人たちも何も持ち出せ

ない着のみ着のままで“自分だけではない、みんながそうだから”だった。

やがて避難所では温かいお茶を飲めるようになった。A夫人は自分はお茶の先生なのだか

らと率先してお茶を出す役を引き受けた。すると皆からA夫人の入れたお茶はおいしいと

褒められた。

A夫人はつくづく思う。形あるものは簡単に失ってしまうけれど、身につけた形のないも

のは決して失うことはないのだと。



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