思いつくまま、気の向くまま
  文は上一朝(しゃんかずとも)


シャンせんせいのガンリキエッセー。
シャンせんせい俗社会一般の傾向を感じたようです。



どこを切っても…

文芸同人に参加している友人がいる。

友人の作品が載ったときや、友人がすすめる作品があるときに雑誌をもらって読んでいた。

同人雑誌というものは似たような作品ばかりで飽きがくるのでそれもいつのまにかとぎれ

てしまっていた。

友人はめったに作品を発表しない。ベンチウォーマーなのである。グラウンドにはめった

に出ず、ベンチから敵味方を問わずに野次をとばすのを得意とするタイプである。


先日、久しぶりに友人の作品が載った同人雑誌をもらった。

ページをめくってみるとおなじみの名前にまざって何人か新しい人が書いている。せっか

くだから全作品を読んでみようと、半日かけて、エッセイ24、小説10編を読破した。

読み進むうちに面白いことに気がついた。すべての作品が、まるでひとつの作品のように

なんの抵抗もなく読み続けることができる。「全集」、すくなくとも全集を出してもらえ

るような作家のものはこうはいかない。いくら作品の傾向が似ていたとしても一休みしな

ければ次の作品を読み続けることはできない。ところが、この同人雑誌はまるで一つの小

説を読むように読めてしまった。テーマは異なっていても話の運び方がみな似ている。ど

こを切っても同じ顔、という金太郎飴なのだ。


芸術というものは、個性の発露に値打ちがある。昔、社会派でならした有名な写真家が

「アマチュアというものは、いつまでも師匠のまねばかりしていて勉強しない。だからア

マチュアの面倒をみるのはいやだ」と言ったことがある。写真雑誌の要請で、食うために

アマチュアの写真クラブの指導をしていたときの嘆きだ。

同人というぬるま湯に長く浸かっているといつのまにか個性というものが削がれてしまう。

仲間に揉まれて、一通りの技を身につけたらぬるま湯から飛び出さないといい作品は生ま

れない。


同人の世話人が巻頭に書いている。『同人雑誌は文学の修行の場であり発表の場です』と。

ぬるま湯というものはどこの社会にもある。当座はいごこちがいいが、その先には落とし

穴が待っている。その落とし穴にはまると、独りよがりという魔物にとりつかれまわりか

ら相手にされなくなる。


世話人氏が書いているように、『修行し、発表し』やがて同人を卒業して客分として招か

れてこそ同人という研鑚の場に参加した意味がある。

どこを切っても同じ顔、「金太郎飴」というぬるま湯現象は昨今の政治家同人をみている

とよくわかる。


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