●連載
虚言・実言         文は一葉もどき


横浜が縄張りの元タウン誌ライター。
貧しさにもめげず言の葉を探求し、人呼んで“濱の一葉”。
ウソ半分、ホント半分の身辺雑記を綴ります。
慢心のツケか、人生の転機、予想外の事態続出。



シリーズ あんな話こんな話

定年後の憂鬱

定年退職後、仕事人間だったX氏の人生はガラリと変わった。

本当はわくわく心ときめく自由気ままな時間、あれもこれもと趣味三昧の日々のはずだ

った。

ところがあれほどあこがれていたのにいざ手に入ったら、思ったほど楽しいものではな

かったのだ。

なぜなら、自由とは最低限の拘束があってこそ謳歌できること、趣味は評価してくれる

仲間がいてこそ深まること、がわかったから。

X氏は孤独だった。

会社で培った人脈はドライなものでほとんど絶えてなくなり、肩書きのない自分に不安

を覚え、家庭という拠り所では今まで殆ど省みなかったために妻との共通の会話も少な

かった。近所づきあいはすべて妻任せ。そのためもちろん近所に知り合いもいない。


ある日、妻の留守のとき町内会の理事だという人がやってきて「お宅の組の総会委任状

が提出されていませんけど、集まりましたか?」と聞かれた。X氏は町内会の仕組みは

さっぱりわからず、さらに自分の家が今年組長であることさえ知らなかった。

この地域でずっと暮らしてきてこれからも暮らすつもりなのだが、町内を歩いていても

挨拶するような見知った顔の人は誰もいなかった。X氏は近所の人とコミュニケーショ

ンが成立できないことに愕然とした。

また、あるとき家のメンテナンスの会社から電話がかかってきたときは、X氏が出ると

いきなり「あの、奥様はいらっしゃいますか?」という。暗に妻と電話を代われという

のだ。まったく家のこととなると自分は相手にされないのだと思い知った。

情けなかった。自分の存在価値がない。こんな心細いことはなかった。会社という組織

に属してバリバリ働いていた頃を懐かしく思う。

X氏はだんだん引きこもりがちになっていった。夫が家にいるということは妻をも束縛

することになるのだが、それにも気づかない。



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