●連載
虚言・実言 文は一葉もどき
横浜が縄張りの元タウン誌ライター。
貧しさにもめげず言の葉を探求し、人呼んで“濱の一葉”。
ウソ半分、ホント半分の身辺雑記を綴ります。
今回のもどきさんは、しみじみと柿の木を慈しんでいます。
柿食えば・・・
我が家の裏庭の片隅に柿の木がある。
今年は生り年でたくさん実ったが、この柿は渋くはないけど美味ではなく、しかも小さい
くせに大きな種が5〜6個も入っていて、とても人様にお分けできるような代物ではない。
ガブリとかじりたいところを種が邪魔するので前歯で探りながら食べ、あとは、種をよけ
る手間を「ちっ」っと舌打ちしながら包丁で切ってサラダにいれたり、和え物にして、さ
さやかな収穫の秋を味わう。
まるで出来の悪い子供みたいな柿だが、庭に生り物があるのは嬉しい。自家製だと思うと
季節感が倍増するような気がする。
柿の木といえば谷内六郎の絵を思い出す。ずっと週刊新潮の表紙を飾っていたおなじみの
あれ。
目に浮かぶのは、田園風景の中にわらぶきの家、庭には半ズボンの男の子とおかっぱの女
の子、そしてかたわらには橙色の実をつけた柿の木があった。柿の木一本あるだけで、自
分の子供の頃の情景やら思い出が引き寄せられ、郷愁に満ちた素朴なイメージが倍加する。
それほど柿の木は田舎の家には必ずあるといっていい必須アイテムなのだ。
なぜか?
先日その疑問を解く記述を見つけた。
昔、女は嫁入りにあたって、実家から柿の接ぎ穂を持参したらしい。嫁は子を産み、子を
育て、やがて一生を終えると、その枝を火葬の薪にした。こうして、代々の嫁の柿が古い
村に残ったのだという。
柿は女の一生を支え、自分の身の始末まで託した守り神のような存在なのだった。
我が家の柿は自ら植えたのではなく、もともとあったのだが、誰かが深い想いを胸に植え
たのだろうか。出来が悪いからと切らないでよかった。