●連載
虚言・実言 文は一葉もどき
横浜が縄張りの元タウン誌ライター。
貧しさにもめげず言の葉を探求し、人呼んで“濱の一葉”。
ウソ半分、ホント半分の身辺雑記を綴ります。
今回のもどきさんは、秋のニ面性を見てます。
ヴェルレーヌの秋
昔から秋といえば、ヴェルレーヌの詩のように、「秋の日の/ヴィオロンの/ためいきの
/身にしみて/うら悲し」に象徴されるように、淋しくて、うら悲しい季節としてイメー
ジされる。
春が希望に満ちた始まりの季節ならば、秋はすべてが終わろうとする終焉の季節。
当然心細くてはかなげなのである。
そんな想いを抱いて秋を探しに高原に行くと、あにはからんや、もみじやうるしが燃える
ように赤く、いちょうは狂ったように黄葉して青い空を突き抜けている。その華やかさっ
たら、まるで歓喜の歌を歌っているよう。
これはなんなのだろう。
自然からの限りない贈り物、落葉する前に木々の葉に与えた一瞬の輝き・・・
空色をバックに赤、黄、緑、茶に彩られた美しい景色はうら悲しいなどという言葉とは無
縁のようだ。
さらに秋を見ようと雑木林に分け入ると、そこはすでに茶色の葉をさらさらと惜しげもな
く落とし、くすんで無残に破れた葉が折り重なっている。
まさにヴェルレーヌの「げにわれは/うらぶれて/ここかしこ/さだめなく/とび散らふ
/落ち葉かな」の世界だった。
カサコソ落ち葉を踏んで歩いていくと、秋の匂いも感触も葉の生き様までもが伝わり、哀
愁に満ち満ちている。
やっぱり私は金ぴかの秋よりはうらぶれた秋の方が好きなのだ。