●連載
虚言・実言         文は一葉もどき


横浜が縄張りの元タウン誌ライター。
貧しさにもめげず言の葉を探求し、人呼んで“濱の一葉”。
ウソ半分、ホント半分の身辺雑記を綴ります。
もどきさん、教会でストレスの価値を発見しました。



信仰

今回はちょっと重たいタイトルをつけます。

教会でクリスチャンもノンクリスチャンも出席できる小さな集まりでのこと、ある人が

こんなことを打ち明けました。

「私は職場でいじめをうけているんです。陰口を言われたり、面とむかって非難された

り、まったく無視する人もいます。そうなったことには私自身にも非があったろうと十

分反省し、なるべく謙虚にふるまっているのですが、ときには頭にくることが…

怒り、悲しみ、恨み、の感情が渦を巻いて、ああ、なんて私は罪深いんだろうと自分を

責めてしまいます」

すると、皆口々に身の至らなかった経験を話しだしたのでした。

「そうそう、他人を許せないことってありますね。神様は自分を愛するように隣人を愛

しなさい、というけど、これがなかなか難しい。信仰が薄いのかしら」とか、

「麻生さんもクリスチャンだっていうけど、なんかクリスチャンのイメージとかけはな

れていない?」なんてのもあって、次々と共感の輪が広がったのです。

雰囲気はだんだん自分を責めたり反省したりして善意のオンパレードになっていったの

です。

聞いていた私は自分を律することは本当に大変そうだなと感じいって、

「クリスチャンって結構ストレスたまるんですね」

他人事のようにいいました。

すると牧師がいいました。

「いいことに気がつきましたね。そうなんです。クリスチャンっていうだけで世間はある

イメージをもっているので厳しく評価します。とてもストレスです。クリスチャンも同じ

人間なんですけどね。人間なんて似たり寄ったりで状況によって卑怯にもさもしくもなり

ます。ただ自分の至らなさを自覚して、正義のために死んでいってくれた勇者がいること

を知り、その勇者のために謙虚に頭を垂れる気持ちが大切なのです」

私はこの牧師にとても親しみを感じました。

私はきっとそのストレスに耐えるなかで、人間として成長し、救いがあるのではないかと

考えたのです。そうでなければ信仰の価値がないじゃありませんか。


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